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ダーク・ブルーの恋人

ずっと下書きのままになっていたこのエッセイ。書いたのは2年前。なんとなく終わりが寂しくて。でも、今でも忘れられない私の大切な恋人です。

・・・・

私の自転車がなくなってしまった。
それはもう、数日前のこと。

私がいつものように、仕事に出かけようとマンションの自転車置き場に行ったら・・・もう、なかった。

何度も目を凝らし、探したけど、なかった。

まるで気まぐれな飼い猫のように、食事の時間になってもそこにいないような。そんな気がした。呼べば”ニャーォ”とどこからか、ひょっこりと出てきそうな雰囲気だった。でも、自転車は猫のように鳴いてはくれない。ただ、そこには、私のあるべき自転車の置き場所だけ、ポツンとどこまでも虚しい空間が漂っていたのだった。

きっと、誰かが盗んだのだろう。

なんてことだ・・・。

駅でまる一日、カギをかけ忘れていても、無くならなかったほど、盗むにはあまりにも使い古された自転車だったのに。

随分と慌ててしまったが、結局その日は、急遽、タクシーに乗って、なんとか仕事には間に合った。でも、私にとって、そんなことはどうでもよかった。約7年間くらい使いこんだ自転車だ。それなりに愛着があった。私の心は、どこまでもしょんぼりと沈んだのだった。それは自分でも、とても意外なことだった。

その日は仕事をしていても、自転車のことばかり気になっていた。奥さんに自転車を探すようお願いしていた私は、とうとう我慢が出来ずに奥さんに電話をしていた。

「近所をあちこち探したけど、やっぱりないわ」
そんな彼女の返事に、私のかすかな希望は、いとも簡単に打ち砕かれた。

そろそろ買い替えたほうがいいかも?と考えていた矢先だった。それくらいに自転車は古くなっていた。でも、私はその自転車を、なかなか手放せないでいた。随分と誤魔化しながら、私はその自転車乗っていたのだけれど、うっかり気を抜くと、チェーンはすぐに外れてしまうし、呼び鈴はすでにあまり鳴らない状態だし、あんなにきれいに輝いていた自慢のダークブルーのフレームボディはもうサビだらけどうしようもなかった。それに正面についているサーチライトは、すでに取れかかっていた。

仕事を終えて、いつも自転車で帰る道を、私はひとり、歩いて帰ってみた。意外なほど長い道のりだった。夜風が私の心を、どこまでも遠く運んでゆく。あの晩、あの自転車に乗った最後の日のことを、私はいつしか思い出していた。

そういえば、あの日、ペダルを漕ぐたびに、”ギィー、ギィー”とこんな寂しい夜の中、自転車はずっと泣いていた。あまりにもひどく泣くものだから”よし、よし、今度の休みの日に、油をさしてやるよ”と私は自転車に約束をしたが、あれが最後になってしまうなんて・・・。

結局、あの約束は守れなかった。

今思えば、あのあとすぐにでも油をさしてやればよかったと後悔をした。あの泣き声は、この日のことを知っていて、私に別れを告げていたのだろうか?なんて思う。

せめて、やさしい誰かのもとで、大切に使われていたら・・・と思ったが
それは無理な願いだろう。

きっと、カギを壊されて、ひどい扱いをされ、挙句の果てにチェーンが外れてキレた誰かが投げ捨てるように、どこかに置き去りにされているのだろう。

私じゃなきゃ、あの自転車はうまく扱えないんだ。あの自転車のチェーンを外さない乗り方のコツは、私でしかダメなんだ。そんな私の心の声は、誰の耳にも届きはしない。

”ギィー、ギィー”と今もどこかでひとりきり、泣いているのだろうか?誰にも油をさしてもらえず、ひとりきり、どこかで雨に打たれながら、ひっそりと泣いているのだろうか?そう思うと、とてもやり切れない。

今は、新しい自転車を買ったけど、どこか馴染めないでいる。まるで死んでしまった犬の代わりに、ぬいぐるみを買い与えられた少女のように、心では、あの愛しいものを、ずっと捜し求めているのかもしれない。

今も、自転車置き場に行くと、つい、あのダーク・ブルーの自転車を探している私がいる。どうしてなんだろう?気付けば、かわいい子犬のように、しっぽを振りながらそこで待ってくれているような・・・。でも、そこにはもういない。現実はいつも、映画のようにうまくはいかないのだ。

・・・やれやれ、自転車ごときに、何を私は考えているんだ?と不思議に思う。でも、私にとって、それがまるで恋人のように、大切なものであったことには、なんら変わりはしない。

私の手元に残された物は、ひとつの小さな自転車のカギだけ。なんだかそれが、私にとって、大切な彼女からの置き手紙のように思えた。

私は今も、そのカギを捨てないでいる。
あの頃のように、ダークブルーのボディを輝かせながら
私をまだ、待ってくれている。そんな気がして。

こんな寂しい夜の中
君はひとり
何を想って泣いているのだろう。


最後まで読んで下さってありがとうございます。大切なあなたの時間を使って共有できたこのひとときを、心から感謝いたします。 青木詠一