見出し画像

人生の終わりと小さな奇跡と。

昔のこと。祖母が亡くなったのを、私は母からの電話で知った。

私が祖母の家まで帰るには随分と遠いからと、母たちだけで葬儀は済ませたということだった。私は祖母ことを”おばあちゃん”と呼んでいた。おばあちゃんは、百歳以上生きたからほとんど眠るように、穏やかに亡くなったということだ。これはもう、大往生といっていいのかも知れない。

小学校の頃、夏休みになると、お盆には必ずおばあちゃんの家まで遊びに帰っていた。おばあちゃんの住んでる町は海沿いにあって、帰っては魚釣りやをしたり(時々、夜釣りもしたり)花火をしたり海で泳いだり、お盆祭りを見たりして、毎年のように子供の頃の私はそれが一番の楽しみだった。

お盆の頃は、親戚のおじさん達も帰ってくるのでいつもにぎやか。その中でも、自分と同じ年頃の女の子がいて(とてもかわいいのだ)その子と遊ぶのも楽しみだった。

おばあちゃんは、今は亡き私の父の母親なのだけど、私の子供の頃からおばあちゃんは、おばあちゃんで、私が高校の頃もずっと、おばあちゃんだったような気がする。それがなんだか不思議だった。(つまり、容姿が全然変わらないということだ。)

高校を卒業する頃には、私は一人暮らしをするようになり、それから父が亡くなって、それきり、おばあちゃんとは会っていなかった。

もう、随分と長く会っていなかった。

でも、ずっと元気でいるような気がしていた。帰れば、まったくあの頃と変わらないおばあちゃんが、そのまま微笑んでいるような気がしていた。

あの頃、おばあちゃんの口癖は「もっと、食べなせぃ(もっと食べなさい)」だった。私はご飯を3杯もおかわりしても、その口癖は絶えることはなかった。(そのたびに、私は食べ過ぎて苦労したけど)たぶん、戦時中の食べ物に苦労した経験から、それが口癖になったのだろうと、後になって私は思った。

おばあちゃんは、私の少年時代の夏の大切な思い出を本当にたくさん作ってくれた。心から感謝したいと思う。

「それでね、不思議なことなんだけど・・」
と電話で母が私に言った。

なんだろう?と、受話器に耳を押し当てると
母は続けてこう話した。

「おばあちゃんが亡くなった日は、うちのお父さんの命日と同じなんだよ」

・・・こんなことってあるんだなぁ。
思わず私は涙がこぼれそうになった。

「もしかしたら、父さんが、”もう、十分に生きたんだから、そろそろこっちにおいでよ”って誘ったのかもしれないね」と小さく母と笑いあった。

そのとき私は、今、なんて幸せな中にいるんだろうと思った。

母との電話を切った後、私はこんなシーンを思い出していた。昔、あれは私の父が危篤のときのこと、私たち家族が何度呼びかけても目覚めなかった。それなのに、おばあちゃんが病院に着いて父の顔を見るなり、精一杯の大きな声で(でも、本当はか細い声で)「しっかりしなせいぃ!」と言って、父の名を呼んだとき、父は「あぁ」と息を吐くような小さな声で、目を覚ましたのだった。

奇跡だと私は思った。でも、起こるべくして起きた奇跡だとも思っている。母親の声はいつも、子供の心の奥にまで届くものなんだろう。こんなこと、偶然なんて簡単な言葉できっと片付くものじゃない。

人の人生って、もちろん、人それぞれだけど、それは風のように走り去り、いろんなことを残しながら、そうして亡くなってゆくものなのだろう。

そして、その残したものが、また、次の誰かに引き継がれてゆく。何度も、何度でも。そうして私たちは、こうしていつも同じ人生を、こんなふうにリレーのように、引き継いでゆくものなのだろうな。

そして、いつかその永遠の先に、そのゴールみたいなものがあるのだろう。果たしてそれは、どんなゴールなんだろう。私はそれがとても楽しみだ。

もしも神様の気まぐれなイタズラで、私たち人間にそうさせているのだとしたら本当に、至福の境地を極めたゴールを用意してもらいたいと願う。

こんなにも人生は苦しいのだから。
それでも、人は幸せを信じているのだから。

最後まで読んで下さってありがとうございます。大切なあなたの時間を使って共有できたこのひとときを、心から感謝いたします。 青木詠一