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執着を手放したい

権利について最近考えています。

権利と言ってもいろいろあって、土地とか遺産みたいに何となく揉めそうな感じがするものから、筆箱の中にある消しゴムまで、いろいろ。

私が小学生の時は長机を2人で使うタイプでした。今は多分、1人で1つの机なんでしょうけど、私が通った小学校は高学年までずっと2人で1つの机だったんです(しかもなぜか男女ペア)。

どういうことが起こるかというと、机の真ん中にびーっと線を引いて「この線から出たらダメ」とお互いで攻防戦を繰り広げるわけ。ちょっとプリントがはみ出そうものなら「線超えた!」と大騒ぎをしたのでした(遠い目)。

「線の内側は私のもの」、つまり「ここは私のテリトリー」と子供ながらに思ってたんでしょうね。つまり「権利」という意識は、生まれつきなんですかねえ。

数年前、当時の職場にアジアの小国から、Xさんという人が研修で来ていました。このXさんは気軽に他人のものを使うし、勝手に取っていくし、それでいて返さない困ったちゃんでした。てっきり「オマエのものは俺のもの、俺のものは俺のもの」というジャイアン気質なのかな、と思っていたのですが、別に取っていって自分のものにするわけでもないし、よく観察すると「所有する」という感覚が乏しいのですよ。

その話を知り合いにしたら、「それって、王様なんじゃないの?」と即答されました。あっ、そうか、王様だったら「広く自分のもの」ですもんね(笑)。

そう考えると、権利というのは生まれつきの感覚ではなく、環境に応じて形成されるということでしょうか。

奈良に一人旅に行ったときに薬師寺にお参りをしたのですが(なぜ奈良に一人旅、という話は長くなるのでまた別の機会に)、たまたまお坊さんのお話を伺う機会に恵まれました。その際に、般若心経とは「かたよらない心 こだわらない心 とらわれない心」であると説明を受けたのです。写経をするにしても「きれいに書こう」と思うそのことが「きれいに書こうというこだわり」になると言われ、目からうろこのような思いでした。私なんとまあ、執着にまみれていることよ。

「私が持っている権利」、これも執着心なのかもしれないと少し離れて見るようになったのはこれがきっかけではありますが、かといって執着にまみれきった私はなかなか手放せません。

数日前にちょっとしたミーティングをしたのですが、ある人が管理している場所・物について、もし可能であれば譲ってもらえないかという問い合わせがあったらしいのです。私が見る限り、特に使っていないのだから気持ちよく譲ったらいいじゃないかと思ったのですが、よく聞いたら「絶対にイヤ」なのだそうで・・・。一回手放したらもう戻ってこないから、と言うのです。そうか、やはり権利を手放すというのは難しいのだな、とふと思ったのでした。

所有物、つまりは目に見えるもの以外でも、肩書みたいに目に見えないものもありますね。そういえば、かつてスゴイ肩書を持っていた方とご縁がありました。すごかった当時は飛ぶ鳥を落とす勢いで、会う人会う人が「ははーっ」とひれ伏したのでしょうが(誇張)、私が出会ったときにはすでに引退してずいぶん時間が経っていました。でも、本人は未だに「すごい肩書」のままのメンタリティなのです。やはりこれもまた執着心なんでしょうね。

ああ、そういえば。業界紙っていろいろありますけど、農業新聞ってありますよね。農業新聞の読者層っておそらくはかなり高い、しかも男性が多いんでしょうね。広告のページがね、精力剤ばっかりでした(苦笑)。これもまた、執着心・・・。