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妊娠中の不思議な出来事

 オンライン大学院ゼミを終え、眼精疲労にやられて伸びていると、娘が学校から帰ってきた。手を洗うなりタブレットの電源を入れてソファに陣取る。「星のカービィ」Twitter やら動画やらをチェックするのに余念がない彼女は、小学六年生。もう母の服を着られるほどにデカイ。

「あれから12年か……」

 季節が春から夏へと移り変わり、札幌の緑も濃くなるこの季節、いつも妊娠中のことを思い出す。当時、ちょっと現実離れしてるんじゃないかと思う不思議なことが二つ、あった。

 一つは、助産師さんがそばにいてくれたこと。

 2009年の1学期、担当の大学院ゼミは「6講目」だった。授業計画が決定してから妊娠がわかったので仕方がないのだが、午後6時15分から7時45分の設定。夜にかかる時間帯だ。この時間帯には、昼間忙しい社会人院生が集中し、全体の人数もふくらみがちになる。早い時間帯だと3~5人くらいがせいぜいの授業が、夜間だと、記憶では最大12人まで増えたことがある。この年も、10人くらいはいたのではないだろうか。議論が飛び交うのは楽しいが、エネルギーも余分に必要になる。

 この学期の、特に前半はつわりの真っ最中だった。授業中は気を張っているせいか、問題が起こったことはないのだけど、帰り道に札幌駅で軽く食事をして、家に戻ると猛烈に吐くというのが毎週続いた。その勢いに、夫が毎度おびえてプルプルしていたのが忘れられない。

「先生、妊娠中でしょ」
「……わかりましたか?」
「後ろから見てもわかりますよ」

 社会人院生の中に、Aさんという助産師さんがいた。どのくらいの年頃に見えたか、もう記憶が定かでないのだが、ベテランの域に達していることは間違いなかった。
 授業解散後、Aさんは教室に残り、わたしのお腹を触って確かめた。
「いけないですねえ、張ってますよ。気を付けなくちゃ」
「はあ……そうなんですか?」
 張っている(あるいは「張っていない」)というのがどういう状況なのかもわからない、妊婦初心者だった。

 授業期間もあと少しとなった7月、不正出血があった。通っていた産院で検査すると、「前置胎盤」という問題がわかった。胎盤の位置が正常なところからずれていて、妊娠後期や出産時に大出血を起こすリスクがあるという。自然に改善することもあるので、少し様子を見ていたが、どうやら治らないということで、総合病院に転院することになった。

 Aさんに話すと、「わたしもそうでした」。「えー!?」
 前置胎盤になる確率は、全分娩のうち0.3%から0.6%という。初めて出会う助産師さんが自分の妊娠中に授業にいて、しかも同じトラブルを経験しているなんて、あり?

 Aさんはより深刻で、大出血を起こして救急車で運ばれ、それから三か月? だったか(記憶あいまい)、出産するまでベッドで絶対安静だったという。
 わたしの方は出産予定の約一か月前から管理入院となったが、突然大出血ということは起こらず、帝王切開で無事出産した。しかし、病院にいる間、まさに管理・管理で、自分が子どものための培養器になったような気分だった。そこまでして安全を確保する必要があったということだ。

 Aさんはずっとわたしのことを気にかけてくれ、出産後はお祝いの品を贈ってくれた。授業を安心して完走できたのは、教室に彼女がいてくれたからと言っても言い過ぎではないと思う。

 もう一つの不思議なことは、夜の北大キャンパスを歩いている時に起こった。

 つわり真っ盛りの頃、いつ外で気持ち悪くなっても対処できるように、ちびまる子ちゃん言うところの「ケロケロ袋」を持ち歩いていた。(憶えてる人、いるかな~。)

 日が落ちた後のキャンパスでは、よくランニングしている学生たちを見る。その日、大学院授業を終えて駅へ向かうために歩いていると、ランニング途中とおぼしき服装の学生がひとり近づいてきた。ぱっと見、男性か女性かわからない、中性的な若い人だった。
 彼女(もしくは彼)は真っ白な顔に半開きの目、脂汗を流してわたしに言った。

「すみません、具合が悪いんです……。何か、持ってませんか?」

 どう具合が悪いのか、「何か」とは何か。
 けれども、わたしはとっさにバッグからケロケロ袋を取り出して渡した。

「ありがとうございます……うう」

 学生は袋を持って、すぐどこかへいなくなった。正しい対応だったようだ。

 プロである助産師さんは別にして、見てわかるほどお腹の出ていた時期でもない。気分の悪くなった学生がわたしを目指してきたのは単なる偶然なのだろう。しかし、北大に就職して19年、具合が悪い! 何かくれ! と訴えられたのは後にも先にもこの時だけなのだ。ケロケロ袋を常備していたのも、この時期だけ。

 助産師さんがわたしの授業にいたのも、この学期だけだ。

 神様でなければ、妊娠時期にやってくる妖精か何かがいるのだろうか。幾度思い出しても、この二件については不思議だと感じずにはいられない。

※写真は北大キャンパスの野鳥です。

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