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思い出のアメリカン・フード (0:はじめに)

はじめに

 きっかけは、「大将」の質問だった。
「アメリカには、美味しいものってあるの?」
 彼は母方の親族で、滋賀県で料理旅館を営んでおり、料理長として皆から「大将」と呼ばれている。有名料理学校で和洋中の技術を学び、アジア各地を食べ歩き、料理人として豊富な経験を持つ人である。わたしはアメリカ史研究者で、この旅館で行われる研究会の打ち合わせを大将と始めようとしていたところだった。
「それはもちろん、ありますよ。世界中から人が移住しているので、いろんな国の料理が食べられます」
「そういう、よそから持ってきたもんと違うて、アメリカ独自のものは何かないの?」
 大将が言うには、日本には季節ごと、地方ごとに特徴のある食材や料理がある。そのようなものがアメリカにもあるのか知りたい、ということだった。
 わたしは考え込んでしまった。何も思い浮かばないからではない。アメリカの季節や地方と結びついたさまざまな味をわたしは憶えているが、料理の専門家たる大将の知識として役立ちそうな例が見つからない。わかりやすいものをひねり出そうとして、ステーキ、と答えると、大将はがっかりしたような、一方で元から知っていたことを聞いたかのような顔をした。そして、
「ステーキはカリフォルニアで食べたけど、固かったわ。アメリカには美味しいものって、ないんやな」
 と結論づけてしまった。この料理旅館の名物の一つは、近江牛なのだった。

 わたしが懐かしく思い出したり、アメリカに行った際に時間を割いて探したりする食べ物や飲み物の多くは、レストランや料亭で供されるようなものではなくて、日常の家庭的生活や地域社会の慣習、また北米の自然に根差したものだ。中には旅行ガイドに掲載されている店の料理や、名物とされる食材もある。けれども、ほとんどは個人的な体験や特定のエピソードと切り離せなかったり、アメリカの文化や社会を知って初めて、広く好まれている理由がわかるものだったりする。アメリカになじみのない人にぽんと名前だけ出して通じるようなものではない。
 忙しい大将と仕事の打ち合わせの場ではなく、ゆっくり世間話をするような場であの質問がされたのだったら、話してみたかったことはいくつかある。夏の期間だけ流通するソフトシェルクラブをシカゴのシーフードレストランで初めて食べたことや、カナダで友人にバッファローをご馳走になったことや、留学先の学生街の店ではオレンジジュースを頼むと丸ごとのオレンジとジューサーが出てきたことなど。振り返って考えるうち、北米大陸の食について、語りたいことがたまっているのに気がついた。
 アメリカ研究者といっても食関連の研究はしていない。専門家として何かを書くというより、北米、主としてアメリカの食について、生活体験の記録のように、また遠ざかっていく「古き良きアメリカ」へのオマージュとして、書きたいと思った。日本のメディアが報道するアメリカ関連のニュースが、ほぼ政治と軍事、経済、巨額の資金に支えられたエンターテインメント産業とプロスポーツで占められる中で、それらとは違う日々の生活としてのアメリカを、日本語を介して伝えられないだろうか―。

 トピックの案を書き出してみたところ、やはり「美味しいもの」ですべてのページを埋めることはできないようだ。でも、美味しいと感じるかどうかには、食べ物そのもの以外のさまざまな要素がからんでいることを、多くの人は経験から知っている。このエッセイの拙い試みから、アメリカの「美味しい」時間と風景をともに慈しむ仲間が増えたなら、これほど嬉しいことはない。
*不定期で投稿します。





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