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『努力』は『才能』の上にある。

「才能じゃなく努力」
と言う人に限って抜きん出た才能があることがしばしば。「その溢れ出る才能と共に過ごして来たから気づかないんでしょーねーッ」と皮肉の1つでも言いたくなる。

どの分野においても、才能のある人はその才能と自分がほぼイコール関係にある中で生きてきている訳だから自分で気づかないのも無理はない…かも知れない。そんな人がさらに“努力”をしているんだから、無才能の私では到底太刀打ちできないと匙もフォークも投げる。

本当に“努力”だけでも何とかなるものだろうか??スポーツにせよ、芸術にせよ、勉強にせよ??
努力を否定するつもりはもちろんない。“努力”は夢の実現を後押しする“自信”を引き出し、“自信”は壁だろうが強化ガラスだろうがぶち破れる“武器(強み)”になる。でもやっぱり、スタート地点の“努力”の基盤と動力は“才能”だと思う。

例えば、私には(ご覧の通り)言葉の才能がない。平凡な言い回し、わずかな語彙力、まどろっこしい文章。リズム感も芸術的センスもない。
だからいくら本を読んだり文章を書きまくったりしても、“自信”が引き出されることはなく(枯渇してる…?)ただ暴走気味の武器と化すだけ。シェイクスピアにも常田大希のようにもなれない。持って生まれし“才能”というのが“努力”の裏で絶大な影響力を持っているのだ。

親戚にとある有名ピアニストがいる。ど田舎のかつては裕福だったらしい家系の本家のお嬢様。その人がフランスの音大に留学した時のこと。その人のお家にお呼ばれして(母のいとこなので)大人たちが談笑していた時、母が「〇〇ちゃん(ピアニスト)はそういう星の下に生まれて来たんよ。すごいことよね」と言った。当時私は小学1〜2年だったと記憶している。子どもなりに辛い日々を送り人生に疲れていた頃だった。「ということは、私は“辛い目に遭う星の下”に生まれて来たのか…!!」と絶句し泣き出してしまった(親戚は私に起こったゴタゴタを知らないからめっちゃ慌ててた。今思えばほんと申し訳ない🙏)。
そしてたぶん、この時の私の予想はあながち間違いではなかった。辛い目に遭う星の下。“努力”をすれば全て裏目に出る程に、辛い目に遭う“才能”には恵まれている。

「才能じゃなく努力」
そう言う人は“才能”がある上に圧倒的な“努力”をしている。「そうか。努力なのか!!!」とあんまり純粋に捉えない方が良いだろう…。

言葉の才能がほしい。
人を笑顔にする才能がほしい。
そういう才能のある星の下に生まれたかったなぁ、と常々思う。


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