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「世界」って言葉が便利すぎる

強い信念とメッセージの一貫性があればあるほど、豊富な語彙力がないと同じような作品ばかりを生み出してしまうのだろう。

「世界」を言い換える言葉をどれだけ見つけられるか。
それが私の旅路につきまとうテーマなのかもしれない。





どれだけ語彙力があるか。
自分の頭の中にある語彙の使い方をどれだけ知っているか。
言葉を使って創作をする人間にとって、ある種の財産のようなもの。
その財産が多ければ多いほど、表現の選択肢が広がる。

嫌いな表現は、思いついても避ければいい。
好きな表現で作品群が形成されていくと、やがてその作家らしさが表れるようになる。

語彙が多いと、好きな表現も多彩になる。
当然だがその裏返しとして、語彙が乏しいと表現は狭くなる。
すると、自分が同じ表現ばかりを使ってしまうことに気づく。
他の言葉で表したいのに、それができないのがむず痒くなる。

いつも同じ言葉ばかりが浮かんでくること。
そして、他の表現が思いつかないこと。
ものを書いている最中にもたくさんのストレスは生まれるが、私が最も頻繁に出会うのはこの類のものだ。

中でも特に厄介なのが「世界」という単語。
ちょっとでも油断すれば、すぐに「世界」という単語を使った表現が浮かび、タイピングしている。


単語としての「世界」は、概念としての包容力があまりに高すぎる。

抽象的な表現を好んでしまう私にとっては尚更。
目に見えるものと心に見えているものの全てをひとつの概念として言い表せてしまうのが「世界」であり、このニュアンスを他の言葉で説明するのは極めて難しい。
伝えたいものを最も簡潔に表せる言葉が「世界」であり、それ以上に詳細なことはいつも言葉で言えないでいる。




世界その一。

私という観測装置からの視点に映る世界。
五感の情報に加えて、心が常に存在する。
「私」はその心も映される唯一の特別な存在。
「私」以外の人間はすべて「他者」として映り、私の偏見や印象によってキャラクターづけされる。


世界その二。

世界全体を広く漠然と捉えるニュアンスを取る。
世界全体の仕組みだったり、個人を特定しない人々の置かれた状況だったりを指す。
この「世界」の中には私も存在しているが、誤差みたいなひと欠片でしかないので表現に影響はしない。


世界その三。

特定のコミュニティにとっての「世界」。
思想や常識が、大きな「世界」よりも偏っている。
私がその中にいる場合、信念等の相反する部分が目立ちやすい。


世界その四。

「私」がその人生の中で歩んできた経路そのもの。
常に「私」視点で捉えられたものだが、主に外的環境を指す。
そのため、この「世界」の中に「私」の心が反映されていることは少ない。
むしろ、「世界」を経験した後の「私」としての心が続いて描画されることが多い。


他にも数えきれないほど、「世界」の意は存在する。
それこそ、ちょっとした「世界図鑑」ができてしまいそうなくらいに。

任意の幅の時間と空間と心を包み上げて、それをひとつの概念として呼んでしまえる魔法の言葉。
きっと今後もずっと付き合っていくことになるのだろう。



「世界」「私」「他者」
そういえば、鍵括弧も私が乱発する表現だ。
こっちこそ、「世界」の濫用よりもずっと克服すべきものだ。
今日だって、鍵括弧ばっかで読みづらい。

どうせ偏っている。
それでいい。
ずっと同じ言葉を使ってしまったって、クオリティが悪くても書いていられることの方がずっと大事だ。
何もプロの作家じゃなんだから、そんなにこだわらなくたって。





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