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『わからん』

「っしゃーせ!」

 カウンター席しかないラーメン屋。L字型のカウンター7席の内側では、鉢巻とTシャツ姿の店長が、素早く丁寧に麺をゆで、椀にスープを注ぎ、一杯のラーメンを整えている。

 今日が39歳の誕生日であることを、本人さえ忘れていた。帰宅すれば、男手一つで育てた愛娘がケーキとプレゼントのスマホを買って待っている。国立大学に通う自慢の娘だ。

 カウンター内にはもう一人、男がいる。20代の彼は店長の動線に侵入しないようにしつつ店長の動きを頭に入れ、ネギを刻んだりお客さんの水を注いだり、サポート役に徹する。

 働き始めてもう5年になる。彼がこの店のラーメンに惚れ、店長に頼み込んで修行を始めた。刑務所から出て初めて口にした食べ物がこのラーメンだった。彼はときどき思う。「店長が、俺の本当の親父だったら」

 店長が毎日磨いている時計の針が指すのは18時33分あたり。席には大学生の男子2人組と、仕事帰りのサラリーマンが席の端で静かにラーメンをすする。FMラジオの軽快なトークだけがラーメン屋で浮いている。

 そして、新たに客がやってきた。乳首を浮かせた薄手の白いTシャツと三本線の入ったジャージを履き、毛髪は最近刈り上げられがちな耳周りと後頭部にのみ髪が残っている。薄手のTシャツをさらに薄めているのは出っ張った腹だ。

 男はL字の角に座り、チャーシュー麺の大盛りを頼んだ。

「チャーシュー大いっちょ!」

 ラーメンが運ばれると、男は麺を飲み込むように食べる。チャーシューは最後に5枚まとめて食べた。ラーメンができてからちょうど1分だった。

 男は立ち上がった。学生も、サラリーマンも「はやっ」と思い、男に顔を向ける。

 見習いが値段を告げる。

「1000円になります」

「あれ? 学割効いてる?」

 見習いは一瞬だけ戸惑う。

「あー、学生の200円割引のサービスのことですか? 学生さんじゃないとできないんですよ」

 そのまま「ハハハ」と笑って流そうとする。

「俺学生だよ?」

 男が不穏な空気を醸し始める。店長がここで動く。

「すいませんねお客さん。こいつ若い人だけが学生だと思い込んでるみたいでね。学生証はお持ちですか?」

 見習いは視線だけで店長に感謝の意を伝えた。

「ねぇよ」

 見習いは目の前に視線を戻す。

「えーっと学生証がないと……」

 見習いはここで一か八かの賭けに出る。

「もしかして、ご冗談ですかぁ~~!?」

 茶目っ気たっぷりの笑顔を携え「このまま押し切ってしまえ!」とパワープレイに持ち込んだ。茶色のレンズの向こうにある小さな目が、見習いを睨みつけた。「ダメか!」ラジオと空調の音がやけに響く。学生とサラリーマンは急いで麺をすすった。

「ぬはははっ!!」

 男は笑った。凍りかけていた空気が溶けて客まで安堵する。見習いも店長も、なんとか切り抜けたと互いに微笑みを交わした。

「ってなんでやねん! 学生って言ってるでしょ!? ぬは!」

 またも男に視線が集中する。学生とサラリーマンはすでに完食しているが動けない。事の終焉を見届けるために、スープに沈んだ短い麵やもやしを蓮華ですくって食べる。

 店長は考える。ここまで言い張るのだから本当に学生かもしれない。でもここで認めてしまえば他の客も認めざるを得なくなる。全員200円オフ。それだけは阻止せねばならない。

「では、次回ご来店したときに学生証持って来ていただいたら、さらに200円多く割引しますね。今回は申し訳ないですが、割引できないです。でも、もうばっちりお顔覚えましたんで大丈夫ですよ」

 忘れようにも忘れられないだろう。

「じゃあいいや」

 そこにいる誰もが男の次の言葉を待つ。

「俺、学生じゃないし。はい1000円ね。ごっつぉさん」

 男は見習いの手に1000円を納め、何事もなかったかのように出て行った。扉が閉まる。

 なぜだろうか。店内に残された者は、深い喪失感に暮れていた。


おわり

※投げ銭制です。おまけは鼻水が出ることについて書いています。

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