短編小説『歌は祈り』
バイバイと言ってから10分も経っていないのに、伊吹純はもう寂しい。
鼠色の雲が深く空を覆っている。純の頬に、チクチク刺さる北風がぶつかり、頭に被っていたフードを引き剥がした。
大晦日になるとさすがに遊んでくれる友達はほとんどおらず、無理矢理遊んでもらった友達も昼の3時で解散した。
帰り道は閑散としていた。普段から賑やかなわけではないが、人の気配がある。
たまに家の中から掃除機の音や子どもの声がする。純は、親戚の子どもでも来ているのだろうと推測した。
純は自宅のアパートの前まで来ると、着膨れた服の下から首にかけていた鍵を引っ張り出す。鍵はすっかり温もっていた。かじかんだ手に力が入らず、鍵穴に鍵を挿してから少し手間取った。
扉を開けると部屋は冷え切っており、昼ごはんに食べた冷凍チャーハンの匂いがわずかに残っている。
純はまず和室に行ってテレビをつける。好きなお笑い芸人が出ていたバラエティにチャンネルを合わせた。人の笑い声は部屋を暖め、笑うことで心が暖まることを純は知っていた。コタツの電源を入れて、ストーブに火をつけた。
純が住んでいるのは築36年2DKのアパートだが、純にはあまり関係ないことだった。アパートの塀のコンクリートブロックが黒ずんでいることも、2階への階段を上るときに左右に揺れていることも当たり前になっていた。
友達を家に連れてきたことは一度もなく、なんとなくではあるが、あまり呼ばない方がいいだろうなと思っていた。
特にやることもないので、純はコタツに出しっぱなしにしていた漢字の宿題に取り掛かった。小学5年生の漢字ドリル。
純は漢字が好きだ。会意文字や形成文字など漢字の成り立ちを考えながらやる。すると、パズルのような組み合わせが楽しめる。偏やつくりの意味を考えるのもクイズを解くように思えている。象形文字には「絶対にこんなふうに見えないだろ」とツッコミを入れる。
純は「歌」という漢字を書く。「できる」という意味の「可」が2つ使われているのに、何かが「欠」けている。歌うことは、何かが欠けている状態なのだろうか。
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