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《自己紹介》えいとと申します。

考え方や環境もかわってきたので自己紹介を更新した。
仕事・趣味ごちゃまぜ、持論アウトプットの置き場としての運用は変わらず。

プロフィールは薄すぎるとあまり面白くないな、と思ったのであえて濃い部分まで掘り下げたものを書いておこうと思う。環境が変わった際に更新していく。


《小学校まで》
5歳くらいに千葉県に引っ越してきたことは覚えている。
幼稚園時代は一瞬で終わったので記憶がない。ただ、生まれてからその年齢まで家族以外と共同生活を送る環境が極端に少なかったからか、かなり内気だったと思う。同世代の子供が近所にたくさんいたのはいい環境だったかもしれない。2個下の弟がいるので遊び相手はいつも弟だった。


《小学校》
近所の小学校へ入学。
小学校1年生入学時に身長130㎝以上あったから当時としてはでかい。結局1年から6年まで背の順は一番後ろだった。どうも自分の町内地区は外遊びを徹底的にやる文化だったようで基礎体力は早いうちから育っていた。1学年120人以上はいたきがするけどマラソン大会等では自分含めトップ10にゴロゴロ入ってくる。このあたりの年齢だとそもそも走り方を知ってる奴とそうでない奴くらいの差でかなり違っていた気がする。


この時代はでかいやつ=もっそりして鈍いやつってイメージが強かった。自分はその概念が嫌いだったかな。町内で1年~6年くらいまでひっくるめて遊ぶ文化が形成されており、年齢的に弟や妹もひっくるめた遊びになることが多かった。

小3くらいで身長150㎝を越えてきた。
体の動かし方を覚えると同学年の中でも運動で活躍できるようになり、活躍できる→好きになる→工夫する→活躍できる、このサイクルに早い段階でのっていくことができた気がする。ただ外の世界を知らないのでその小学校では、という感じ。町内会でソフトボールチームがあったのでみんなそこに入るのが普通で6年間在籍していた。運動は全般好きだったが特に球技に関しての理解は強かった気がする。遊びでサッカーはやっていたけどサッカークラブに入っている奴はやはりうまい。ただ絶望的な差ではないなと感じた記憶はある。成熟されていない技術での勝負は基礎体力があるだけでなんとかなる部分があったんだろうと思う。

当時スラムダンクが流行っていたこともあり遊びでバスケをやるようになった。中学ではバスケ部に入りたかったので市内のバスケチームに少し在籍したがすでに試合が終わっている時期だったので練習のみ。県大会にも出るようなチームだったようで世の中にはすごい奴がたくさんいるなぁ、と初めて思ったよい経験。全学年男女混合で50名くらいいた気がするが下から数えた方が早いレベルで実力差があった。

どうやら近所の親たちが外で遊ばなくなるのでファミコンは買わないというルールを作っていたらしい。だがファミコンを持っている転校生が引っ越してくることでそれが崩れ、結局購入。バスケとファミコン(スーファミ、プレステ)ばかりしている時期、当時はファミコンの時間を決められていたが家でできないときは友達のところでやっていた。


《中学校》
近所の中学校へ入学。入学当時は身長176㎝。
やる気マンマンでバスケ部に入るもプレイさせてもらえない。中学は弱小で市内でも1回戦で負けるような感じ、そもそもちゃんとした指導者もいない。そんな中でも上下関係という文化は存在しており、カッコつけたいからやっているようなちょいヤンキーぽい先輩達だらけだった。指導者がいない=実力を測る術がないわけで試合は3年が出場、次の代は2年、その次の代は1年とまさに年功序列で退屈な日々だった。その頃はバスケがやりたくてしょうがなかったので部活後には自主練、部活が休みの日は別の体育館を借りて自主練していた。

ひとつ上の代は人数が多くかったため下級生からベンチに入れる必要が出てきた。自分がそこに加わり、実戦形式の練習に混ざるようになってからは実力でスタメンに入るのは難しくなかった。ただ、少ないといってもスタメン+αくらいの人数はひとつ上の代でもいる。自分が試合に出ることによって出られなくなる先輩が何人も発生することから理不尽なの上下関係に苦しんだ時期でもあった。カッコつけでやっているちょいヤンキーの先輩は基本的にプライドが高い。バスケで勝てないなら他の要素で負かしたくなるというのはわからんでもない。このあたりの特効薬はなくバスケで黙らせるしかなかった。レギュラーの先輩がゲーム好きでダビスタ3を一緒にやっていた記憶はある。

3年、バスケ部のキャプテンとなる。身長186㎝くらい。
先輩うんぬんの関係はなくなったがしっかりした指導者がいない。よくある楽しければよいというチームになっていた。指導者がいないチームは意識の高い奴と低い奴が混ざる。個人競技ではないためこの差に苦労することになる。自分はいつかインターハイにいきたい、いける可能性のある高校へ行きたいと考えていた。スラムダンク好きだったし。

自分が1試合で40点、50点とろうが少し強めのところにあたれば常にダブル・トリプルチームを食らうので総合力で試合としては負けてしまう。そんなバスケ環境下でラッキーだったのが市選抜チームに入れたこと。バネはそこそこあったので選抜選考会でダンクかませるくらいではあった。中学生としては珍しいので印象には残ったと思う。中でも外でもやれたので1ON1には絶対的な自信があり対策してこない相手はボコボコにできた。

半年くらい選抜チームとしての練習があったので県内強豪高校と練習試合する機会ができたのが本当に大きかった。真面目に勉強してインターハイを狙えそうな高校に潜り込むつもりだったけど県内強豪校から複数オファーをもらったので結果的にうまくいった感はある。3年秋前には進学は決定していたので受験知らず。高校までひたすらバスケとゲームをしていた。


《高校》
バスケ特待生のような枠。入学時身長189㎝。
中学とはがらりと異なり、全国から中学有名プレイヤーが引っ張られてくるような環境だった。部員ほぼ全員が推薦組で全員が最低でも中学ではエースクラス。自分の家系はスポーツ系がひとりもいないので参考にできなかったがこのあたりになると小さい頃からバスケ漬けの英才教育クラスがくる。全員が試合に出たい、そのために高校にきている。中学のような変な上下関係はなく、指導者もしっかりしていることから全員が勝つための取り組みへ向けて進んでいく実力勝負の環境になった。

直近の1.2年はインターハイに出られておらず挑戦者の立場。
1学年で自分と同じような推薦組が10名以上くるわけだけど自分ともう1名がいち早くAチーム(ベンチ入りチーム)に混ざり、多く遠征等も経験させてもらえた。強豪校の練習はハンパなく、ウォーミングアップで1年はバテるレベル。軽く100回は辞めたいと思った。今はどうかわからないが軍隊式の組織で精神的にも徹底的に鍛えられた。ただ、目指すべき方向は一致していたので文句のつけようがなかった。基礎体力では先輩に1年では誰一人勝てないというくらい差があったと思う。

夏に3年が引退し、1.2年の代になったがそこで少し病んだ。
客観的にみるとうれしいことかもしれないがチームのエースを託された。ポジションも4→3に変更で大型ジャンプ3Pシューターになるというのがミッション。これがとんでもなく難しい。実力が伴っていないので育てる意味での配置。もっと動ける先輩がいる中での起用だったこともあり相当なプレッシャーだった。練習試合では全て自分の1ON1から試合を組み立てるくらいで10回攻めたら10回自分にボールが集まる。バテようが何度止められようがそれ以外の攻めはしない。いじめだろこれ、というくらいの状況がしばらく続き、軽く300回は辞めたいと思った。

部活にいきたくなくなった。
弱小中学のプレイヤーが強豪高校に入って数か月でエースを託されるのはきつかった。今までにないプレッシャーと疲労の蓄積で精神的に弱っていたんだと思う。試合に出られなくて悩むのならともかく、試合に出たくなくて悩むというパターンは稀だろう。先輩達はその状態をわかっていたがインターハイにいくためにそれをクリアすることが必須と理解していた。試合に出たくてしょうがない、自分より動ける先輩達の気持ちを一手に背負うのがよりきつかった。

今でこそ何があっても殺されるところまではいかない、と思っているけど当時は練習中に本当に殺されるかもしれんと毎日思った。慣れと先輩方のバックアップでなんとか突破し落ち着いた。高校レベルの基礎体力もついてきた。専門的なことだけどディフェンスとしては大型ジャンプ3Pシューターはかなり止めづらい。高身長の打点から+ジャンプ最高点で撃ってくるので相当つめないと強引に沈められる。詰めたらドライブで切り込まれる&サイズがあるのでミスマッチで強引に押し込まれる。詰めなければどんどん3Pを沈めてくる。元々中学時代から3Pも撃っていたしシュート自体はうまかったと思う。完成すれば強い。

毎日とんでもない数のジャンプ3Pシュートを撃ってきた。楽な状態のノーマークはほぼ沈めなければならない。体力が落ちて苦しい時に沈め続けることができるかというのが難しいところ。キツイ時に強引に1本とってこれるというのが必要な要素だった。

ある程度モノにして2年中旬までは絶好調だったがそこがピークだった。
先天性らしいけどこめかみあたりの内部に膿がたまる病気になり頭が痛くてしょうがない。全身麻酔手術というものをはじめてやったけどしばらく復帰できなかった。細かい怪我の頻度が高くなりここぞという場面で試合に出られないことが増えた。安定感がないのでチームで勝つ方向にシフトしていった。自分はエースでなくても貢献できるという思いで練習に取り組み、3年夏に自身初のインターハイ出場、全国ではすぐ負けたけどスラムダンクからはじまったひとつの目標は達成できた。

大学へもバスケ推薦は可能だったがそれで飯を食っていくことはできないだろうと思い、バスケ推薦入学は辞退。ここからバスケは趣味とすることにした。高校時代にいたバスケ漬の日々は今となっては本当に貴重な時間で成長できたと思う。ただ、また高校時代と同じことができるとしたらやるか?と言われたら間違いなく秒で断る。休みはほとんど遠征だったので自由時間は少なかったがゲームは睡眠時間を削ってでもやっていた。今思えばなかなかの執念だ。



《大学》
AO入試という仕組みがあったのでそれで家から通える大学へ入学。
なんだかんだ受験は一度も経験しなかったことになる。社会人の草バスケチームというのがあってバスケはそこで遊んでいた。今まで積み重ねてきたものを遊びで使えるのは楽しかった。もし、高校時代に楽しく遊べるバスケ部を選択していたらどうなっていただろうとかたまに考えたりする。今の自分はなかったかもしれない。

大学時代は遊びまくった。
高校時代にできなかった反動が一気にきた感じ。少し資格をとったりそこそこ真面目に勉強はしていたと思う。それ以上にゲームをする時間が大幅にとれるようになったことからゲームばかりしていた。当時はRO(ラグナロクオンライン)というオンラインゲームが流行っていてそればかりやっていた気がする。最低限のことはやっていたのでストレートで卒業。就活の氷河期にあたる時期だったので採用がやたら少ない時期だった。正直どこでもよかったが食の需要は不滅だろうという単純な理由で食品関係とした。2社しか受けていないけどそこで決まったのでまぁいいか、という感じ。どこに入るかというよりはそこでどう働くかが重要だと当時は言っていた気がする。



《社会人営業部門》
色々部門がある会社だけど家から通えるところに配属になったのでまぁヨシ!という感じだった。千葉の拠点で業務用食品卸部隊の営業マン。元々子会社がグループ企業に吸収されたような感じでそこの新卒第一号だったらしい。育成機能はなく、なかなかブラックな環境ではあったが高校時代に軍隊式を経験してきているためこんな楽なことで金貰えるとか社会人最高だな!と本気で思っていた。

営業マンの業務は新規開拓と既存管理を同時にやる。新規があげられない営業はゴミ扱いされる環境で客観的にみるとメチャクチャストレスがたまる過酷な仕事。誰が教えてくれるわけでもなく自力で考え動かなければならない。不思議と自分はストレス耐性があったのか悩むことはなかった。仕事やりたくねー、努力もしたくねーというようなクソみたいな先輩が何人かいたかな。全員がやりたくて、努力して少ない席を争っていた高校時代とは真逆。やる気のない奴にも席がある、そして金が支払われる。社会人ってそういうもんなのかと思うと共に参考にできる奴はいないと感じた。

当時のボスは本当にクソで何もやらない奴だったが勝手に勉強し、実力をつけてそのボスの仕事をほぼ代行し、歴代最早で役職がついた。役職がついたら実家を出ようと考えていたのですぐに引っ越し。一人暮らしをスタート。
自分であれこれやるのは大変だなと思いつつも慣れると気楽。なんだかんだ自由だし相変わらずゲームもやる。大学時代からやっていたROもボチボチ続けていたがそこの仲間の一人が今の嫁。ゲームつながりの知り合いと結婚というのは当初は珍しかったかもしれない。隠す必要もないと思っていたので公開していたが自分がゲーマーということは知れ渡っていたのでえいとらしいといえばらしいと言われることが多かった。そこから2人暮らし。

しばらくは平和に暮らしていたが職場でストライキが起こった。
まぁボスがクソというのは以前からわかっていたが他の従業員がそれに耐えられなくなったという感じ。自分はバカらしいので参加しなかったが自分以外全員がそれに参加していた。ボスを辞めさせろと更に上にいいに行ったらしい。結果的にボスは異動となった。

確かにボスはクソだったんだけどそれ以外の従業員達もクソだと思っていた。
何かを求めるばかりで自分で努力しない奴らだったのでうまくいかないことを全て必要悪であるボスのせいとしていただけ。ストライキ時にボスがいなくなればそれによって発生する業務上の苦労は全て耐えることを約束していたようだが誰一人それを守らなかった。当時のメンバーほぼ全員、今は退職している。

自分が必要業務を代行し、少しずつ従業員を入れ替え営業所を復活させた。
そこから営業所長となり、プレイングマネージャーとして仕事をする。別部隊の仕事を兼務したりと色々取り組みつつという感じを数年間。少し手伝っていた水産工場の実績がボロボロでコロナによってトドメを刺された感じがあったがそっちの再建をやってくれということで岩手に工場長として単身赴任することに。


《社会人工場部門》
工場長とは名ばかりで実際はひとりの経営者というような感覚。
商品開発、新規開拓、既存販売、工場管理全てやる必要がある。上からの指示は全くない、自分でビジョンを設定しそれに向けて仕事を作り直していく必要がある。水産品の加工という部分にそこまで思い入れはないのでミールキットを作る工場にしたいという概念で進める。文句を言われることもあるけど会社の金で好きに仕事していいなんて最高だなという感覚である。ここまで自由度の高い仕事ははじめてだった。

コロナにより食の価値観が激動した期間だが元々興味のあった量販デリカをターゲットにしたミールキットを軸としていくことになる。自分で料理を作れないと話にならないということもあり単身赴任先での食事の9割を自炊に変更。仕事での開発と自宅での料理の境目がなくなるくらい作りまくる生活だったが楽しかった。この経験から自然と料理が趣味になっていく。

約1.5年間これを続けてきたが自力で開発し、製造し、新規開拓し、販売するとう商売を通しでやれるいい経験となった。この間で15社くらいの取引先に弊社のミールキットを並べることに成功するが1年目は様子見、2年目で勝負というような構図へ進んでいく。東北はミールキットの文化がなかったので0→1にするのはとにかく苦労した。

着任後1年で赤字は半分となりミールキットの種を蒔いてきた、次の1年が勝負だと息巻いていたが突然の工場撤退指示が降ってくる。この2年の間に別部門のコロナによるダメージが大きく、赤字工場のけん引に待ったがかかった感じ。約1か月少々での即時撤退となり進めていた案件は全てクローズし、それに伴って自分以外の従業員は全員退職となった。結果的に30年続いた工場を閉鎖させた最後の工場長ということになる。クローズさせるのは嫌な仕事ではあったが前向きに考えるとそれもいい経験であったと思う。


その後、単身赴任は解除となり、本部が次の職場となる。
社内の中枢的な機能を持つ部門で主に仕入や開発を行っている。電車通勤、内勤軸となるため今までと勝手が違うが触ってこなかった部分の仕事ということもありそれも面白そうなのでしばらくやってみようというのが現在。

好きな仕事をやっていきたい、楽しいことをやっていきたいというスタンスは変わらない。今の仕組みを理解した上でどんなことに挑戦していけるかを日々考え、実行していきたい。

以上(´・ω・`)

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