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■ 其の175 ■ 民俗学はエモーショナル

宮本常一 / 民俗学 / 山に生きる人びと

宮本常一は1930年代(戦前)から70年代にかけて、生涯に渡り日本各地を訪れて現地調査を行ってきた民俗学者です。
宮本常一の本を読んでいると、明治以降から昭和にかけての日本人の生活がどんな感じだったかが伝わってきます。祖父母やその上の世代がどんな時代環境で生きてきて、今の自分たちへつながっているかを考えさせられます。フィールドワークに基づいて淡々と記された文章は、かえってエモーショナルに心を刺激します。
1964年に刊行された『山に生きる人びと』(未來社)の文庫版から抜粋して紹介します。

鹿児島県や宮崎県には古くから野の村々を塩を売って歩く行商者がいた。塩売おぢ、塩売おばといったというが、村人からはやや軽蔑せられていた。それにもかかわらず、子供が生まれると、この人たちに名をつけてもらう風があった。そうして塩売りたちが遠く山中にもはいりこんでいったようである。〔P17〕

他の獣は火をおそれるものだが、オオカミだけは火もおそれなかったという。そして人間ばかりでなく、家畜をも食い荒らした。そして古くは里にも出てきたものである。〔P47〕

大阪天王寺駅の西方、現在市民病院のたっているところはもとミカン山といって草地の台地であった。その台上に筵(むしろ)でかこった小屋の大集落があった。それがサンカの部落であった。おなじころ、大阪市の新淀川にかかっている長柄橋の下の川原にも大集落があったし、淀川にかかった都島橋の下にも筵張りの大きな部落があった。〔P60〕

村で山仕事などしている者が、二人三人で突然姿を消すことがあるが、それが山をこえ谷をわたって山仕事や手職をしながら主として九州の各地を歩き、ときには遠く京大阪へも行ってくる。私たちの考えているほど閉ざされた世界ではなかったが、外で何をしていたかはよくわからない。が、その漂泊性のつよさのなかに古い山民の姿が見られるのではないかと思う。〔P122〕

この山中におちついた家々は戦争がきらいで、もう戦争はすまいと思って、わざわざ不便な山中に住みついたのだから、戦争のことは関家にまかせて、自分たちはその下にいて、百姓に精出そうということになった。〔P134〕

土地も持たず、家も粗末だということによって、村人からは軽蔑の目で見られていたが、こうした生活をつづけてきた人が中国山中には五、六万人もいたのではないかと推定せられる。そしてその外側には鉄穴掘り、大炭焼、駄賃づけの仲間がさらにそれに数倍いたはずである。〔P147〕

長崎県対馬の厳原(いずはら)という城下町から山一つこえたところに日掛という部落がある。今は多少の水田も見られるが、もとは耕地らしいものはほとんどなかった。家は三、四〇戸もあろうか。この部落の人たちは対馬銀山の炭焼きとして石見(島根県)の国からわたってきたのであった。〔P164〕

この川狩をおこなうとき、まだ十分に組まれていない小筏(いかだ)や大きな木材にのって岩をさけつつ下っていく中乗(なかのり)という人夫がいた。これは川狩のヒヨウの中からえらばれた巧者なもので、夏川のときは千人に一人であった。木曾節にうたわれた「木曾の中乗りさん」がこれである。〔P174〕

しかも山中には五里八里(一里=4km)のあいだ人家も何もないようなところが多かった。福島県会津奥の只見村から新潟県へこえる八十里越や六十里越はそうした峠であった。〔P181〕

地方の中心をなす親方の家は多くは問屋をかねていた。村人の製品はそこへまとめてボッカや牛方に越中の問屋まで送らせる。同様にして生活に必要なものを取り寄せる。村人はそれを親方から分けてもらう。山中の生活は多くは親方まかせであり、そうしなければ生きていけなかった。〔P183〕

元来、山伏は足がつよく、とくに山道を歩くことになれているので荷持ちをして生計の資を得ているものはすくなくなかった。九州英彦山の山伏なども下級の者は荷持ちによって生活をたてていたといい、また出羽湯殿の山伏も、村山盆地と庄内の山地の荷物運搬にしたがっていたものであるという。むしろ山中にあって荷持ちのような仕事をしていたが故に山伏になっていたともいえる。〔P189〕

野では早くから電灯がこうこうとしてついているのに山間ではランプのままであるということは山間の人の心を暗くした。それよりも何よりも、山にいては子供たちを学校へさえ十分に通わせることができない。小中学校の永欠児童のうち、親の職業を見ると林業とある者がもっとも多かった。〔P200〕

たとえば紀貫之が土佐から任期がみちてかえって来る船はそのまま淀川をさかのぼっていったようで、外洋を航海する船も、川船も区別なかったと見られるし、道の十分発達しなかった以前は川は山地と海をつなぐ重要な通路でもあり、山は意外なほどつよく海にも結ばれていたのではなかっただろうか。〔P237〕


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