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多数派とか少数派とか、そんなん関係ない世界になりつつあって、これからの時代をどう生きるかが問われてる

「無知の知」は、ソクラテス哲学の基本の概念です。
「自分が無知であることを知っている」ということを意味しています。

わたしがイギリスの大学院に留学して出会った「無知の知」の瞬間を今回はテーマにしたいと思います。セクシュアリティとジェンダーの授業を履修して感じたことです。

初回授業の自己紹介で驚かされる

授業のテーマは、セクシュアリティとジェンダーです。
ですが、授業の内容に関する話ではなく、1回目の授業の話をしたいと思います。

1回目の授業ですから、冒頭に、先生の自己紹介がありました。とても可愛い犬を飼っています。
その次に、学生の自己紹介が行われます。先生は、わたしたち学生に「あなたの名前とあなたが呼ばれたい代名詞を教えてほしい」と伝えました。
代名詞というのは、第三者の誰かを指す時に、「彼」とか「彼女」って使いますよね。その「彼」とかのことです。英語だとhe/she/theyなどの単語です。中学生の時に、he/his/himって覚えませんでしたか?それらが代名詞です。

例えば、わたしは女性なので、わたしに対して使う代名詞は、sheやherです。もしかしたら、身体的な性別が男性で、性自認が女性であるトランスジェンダーの人なら、sheを使ってほしいかもしれないし、性別を決めていないと考える人は、theyを使って呼んでほしいという人もいたりします。見た目で判断できない事ですし、先生は、本人に対して使ってほしい代名詞を直接学生に確認していました。

この自己紹介は、本当に驚きました。性的マイノリティの方の中にはtheyを使ってほしい人がいる、ということは、知識として知っていたのですが、イギリスでは授業の中の自己紹介で全員に伝えて、先生がきちんとメモを取るほどに、性別についてオープンに語られていました。少なくともこの授業では、性的マイノリティの人たちを完全に受け入れるという方針を見せつけられた瞬間でした。授業の内容に入る前から、日本との大きな違いを実感して、雷に打たれたような衝撃があったことを覚えています。

実は、この質問は2回目の授業でも、もう一度行われました。本人の希望と異なる呼び方をしない、という先生の確固たる意志を感じました。

では、大学院での授業で学んだことにうつりましょう。

多数派に属するということ

セクシュアリティには2つの観点があります。
自分が誰であるか(性自認)と、恋愛対象は誰か(性的指向)に分かれます。

とても簡単に説明すると、性自認はセクシュアルアイデンティティと呼ばれて、自分の性別は何か、という問いへの答えです。
性的指向は、恋愛の対象はどういう属性か、という問いへの答えです。

わたしは遺伝子的にも自覚する性別も女性ですが、わたしのように、持って生まれた身体の性別と、自覚する性別が同じ人が圧倒的多数を占めているのが今のこの社会です。

一方で、身体の性別と自覚する性別が違ったり、違和感を持つ人たちは性的マイノリティ(少数派)と呼ばれます。グラデーションのように多様で、あいまいで、ビシッと線引きができるわけではない、というのが最近の考え方の傾向のようです。

少数派に属するということ

次は、どんな属性の人を好きになるのか、という性的指向についてです。人間はアダムとイブから始まった異性愛(ヘテロセクシュアル)が基本の社会で、異性愛の人が圧倒的多数を占めています。同性愛(ホモセクシュアル)は異端として虐げられたり、また、病気だとして、治療を受けさせたり、同性愛であるだけで犯罪だったりした歴史があります。今でも、同性愛の人たちを差別する人もいますよね。

わたしは、自分が異性愛者なのか、という点に疑問がありました。どうもそうではないんじゃないか、という気がしていたのですが、でも、同性愛者でもない、という自覚もありました。誰のことも恋愛として捉えていない、という感じで、人類愛はあるものの、相手が男性でも女性でも差異がない感じで、自分は恋愛不適合者なのだと思っていました。

それを友人に相談しても、考えすぎ、とか、まだ出会っていないだけ、とか言われたりしました。でも、私は恋愛的な感情を持つことができる誰かと恋愛したいわけでもなかったんです。同じように考えている人はいなかったし、誰にも理解してもらえないし、恋愛ができないという欠陥を抱えて生きていくしかない、と思っていました。

この授業で、無恋愛とか無性愛、という属性があることを知りました。無い、という属性があったんです。自分は、「無恋愛」なんじゃないか、と思った時に、同じ傾向を持つ人がいる喜びと、ひとりじゃないという安心感がありました。それはもうなんだか言葉に表せない大きな感情でし

わたしの周りには理解してくれた人はいなかったけど、友人たちが悪いわけではないんです。本当に、ただ知らないだけなんです。無恋愛という属性は、わたしも留学するまで知らなかったことですから。勝手に一人で「誰もわかってくれない」と思っていたわけですが、自分が少数派になった経験は、多数派の人は、少数派の気持ちを本当の意味ではわからない、という風に考える機会になりました。

ソクラテスが降りてきた!

大学院でこの授業を受けて感じたことは、自分が想像できる範囲はとても小さいこと、自分が想像できる範囲の外には、その事について悩んでいる人がいること、誰でも無意識の思い込みを誰もが持っていること、の3つです

性別に関して、わたしは圧倒的多数派に属していて、男と女という分け方で、これまで悩んだことがありませんでした。自分が多数派に属しているから、悩んだり違和感を持つことがなかった、ということにまず気がつき、自分の想像力の欠如を感じました。

そして、「多数派ではない少数派の人たちは悩んでいる」ということを普段は意識することもありませんでした。でも、この「少数派の人は悩んでいる」と考えることすら、私の想像や無意識の決めつけでしかなく、悩んでいない人もいるかもしれないのです。

性別については個人レベルで違っているので、属性でひと括りにして語ることはできないし、勝手にわかったふりをして話してはいけない、と思うようになりました。
……でも、性別以外にも、どんなことにも少数派に属する人はいます。
それで、こう思ったんです。

性別に限った話ではなく、全てのことにおいて、どんなことでも、
「自分が想像する範囲の外側に広がる世界があり、自分はそちらの世界のことを知らない」

こ、これは、もしかして、ソクラテスの「自分が知らない、ということを知る」=「無知の知」では?!
ソクラテスの呟きが降りてきた瞬間でした。セクシュアリティとジェンダーの授業なのに、哲学的な学びがありました。

相手を本当に「理解」するって?

性自認の観点では多数派に属するわたしは、性的マイノリティを理解して、共感したい、と思っていました。
でも、ちょっと思うんです。共感って、時々、優しさを装って他人の心をえぐる無自覚の暴力、みたいな時がある気がするんです。それは、強いものが立場の弱い相手を「わかってあげる」みたいな上からの気持ちを持っているとか、少数派に共感できる自分に酔いたいとかが、透けて見える時だと思うんです。
「あなたに共感したいです」と近づいて来る人を信頼できないし、そんな人に理解されたくないし、理解しているフリすらしてほしくない、と強い拒否反応が出てしまうような気がしました。

……じゃぁ、どうすればいいんでしょうか?

異性愛ではない少数派のわたしは、「誰もわかってくれない」と悩みました。でも、これって、自分の辛さや気持ちをわかってほしい、の奥に、自分を受け入れてほしい・認めてほしいっていう気持ちがあるのだと思います。

だから、わたしは、当事者の悩みや辛さ、生きにくさを体験していないという意味では、わかっていないかもしれないけど、わからない部分も含めて、その人をそのまま丸ごと受け入れたいです。
うれしいことがあった時は、一緒に喜んだり、愚痴を言い合ったり、制度や社会に怒ったり、なに食べるか考えたり、そうやって同じ時間を共有して、感情を分かち合うことが、わたしなりの「受け入れる」なのだと思います。

ダイバーシティやインクルージョンが叫ばれるこれからの時代、人を属性で分けられない社会になっていく気がしますし、そんな社会になってほしい、という願いもあります。
誰もが多数派であり、同時に少数派であることが一般的になっていくのかもしれません。そんな世界をどう生きるか、あなたも一緒に考えませんか?

Text by ひらみなおこ(ふつうの会社員)




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