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ナポレオンと音楽(後半部・前)

※後半部です:前半部を未読の方はお読みください

予防線:本人の誤解、主観、思い込みによって構成されている場合があります。
ちなみにナポレオンの愛馬はマレンゴだそうです。


前半部の要旨:みんなナポレオン嫌い

 

 さて、前回はナポレオン=ボナパルトが如何にして王政打倒後の極めて情勢不安定なフランスで権力の階段を駆け上がり、如何にしてもはや人間の運命とも言える没落を始めてゆくか、までを書いた。

 前回の復習。ナポレオン=ボナパルトは欧州各地を攻略して皇帝に就任したが、にっくきイギリスはかなり手ごわく、ナポレオンはイギリス上陸を断念せざるを得なかった。そこで、経済的に抑圧してやろうと大陸諸国各国に対してイギリスの通商を禁じる大陸封鎖を行ったが、思うように効果が上がらず、イギリスとの貿易が強制的に断絶された大陸諸国も打撃を受けることになったのである。ここまではOK? ( ・ω・)👌?

 大陸諸国の中で大陸封鎖に反抗したのはまずポルトガルだった。ポルトガルのジョアン6世(当時はマリア1世の摂政)はイギリスとの通商遮断を聞き入れなかったため、1807年にナポレオン=ボナパルトはフランス軍を進めてリスボンを占領してしまった。次いで、1808年初めのうちにポルトガル占領の補強を口実にスペイン要地が占領されると、3月にゴドイ政権に対する反乱(アランフェスの反乱)が発生し、ゴドイは失脚、ローマに亡命し、カルロス4世も退位を迫られた。結局、国王は退位し、代わりに反ゴドイ勢力が結集していたフェルディナンド7世が即位したが、ナポレオンは1808年5月10日にジョゼフ=ボナパルト(ナポレオンの兄)をスペイン国民を封建制度から解放するという名目で即位させた。

 3月のアランフェスの反乱でフランス軍と民衆が衝突していたが、この時は鎮圧された。しかし、兄ジョセフの即位直前の5月2日、マドリードで再び反フランス蜂起が起きると、今度は反乱が各地に広がった。各地は評議会を結成し、民衆はフランス軍に対してゲリラ戦闘を展開した(「ゲリラ」はこの際の小戦闘guerrillaなるスペイン語に由来する)。6年に及ぶスペイン独立戦争(半島戦争)のはじまりである

ゴヤ

(▲『5月2日』フランシスコ=デ=ゴヤ ※画像はプラド美術館のサイトから

ゴヤ2

(▲『5月3日』フランシスコ=デ・ゴヤ ※画像はプラド美術館のサイトから

 さて、バリバリの反フランス国家であるブリティッシュくんは同年のうちにスペインに上陸してスペイン軍を支援した。ピエール=デュポン・ド・レタン将軍率いる軍隊やジャン=アンドシュ・ジュノー将軍率いる軍隊を降伏させることに成功したものの、ナポレオンが戦線の指揮を執るようになるとイギリス軍は押され気味になり、翌1809年にはフランス軍はほぼ全土を掌握、'10年にはエブロ以北の地域をフランスに併合してしまった

(3)ウェリントンの勝利、あるいはヴィットリアの戦い(ルートヴィッヒ・ヴァン=ベートーヴェン)

 ところが驕れる人は久しからず、ナポレオン=ボナパルトは油断したのか、あろうことかスペインにおけるフランス軍を削減した。というのも、1810年12月に穀物輸出国のロシア帝国が大陸封鎖令に背いてイギリスと通商を再開していることが発覚したのである。怒ったナポレオンはロシア遠征を企て、そのためにスペイン占領軍の兵力を削減してしまった。

 将軍ウェリントン公爵アーサー=ウェルズリー率いるイギリス軍とスペイン軍はこの隙をつき、連合して1812年にマドリードを占領、’13年6月にジョゼフ=ボナパルトは退位’14年6月にはフランス軍を撤退させることに成功した

 一方、ベートーヴェンは(経済的に)奈落の底にいた。1812年からの平価切下げに伴う異常なインフレーションは1813年も猛威を振るい、物価はますます上がっていく。この時ベートーヴェンの主要な収入の一部は貴族からの年金であったが、そのうち、前年不慮の事故で逝去したキンスキー候からの年金支給が延滞していた上、弟カールの病気が悪化して共に職につくことができない状態になったのである。更に悪いことは重なるもので、インフレの影響で準備した受益コンサートの計画は白紙になり、結局手元には作曲に使った莫大な費用だけが残った。泣きっ面に蜂とはよく言ったもので、その上、7月にはロプコヴィツ候が劇場の運営に失敗し、破産。ベートーヴェンへの年金は停止されてしまったため、ベートーヴェンは困窮を極め、まともなシャツ1枚も持てなかった

「この夏の後半をベートーヴェンはピアノ製作者のシュトライヒャー家の人々とともにバーデンで過ごしているが、この時の様子をシュトライヒャー夫人ナネッテは「彼はきちんとした上着はもとより、まともなシャツ一枚として持っていませんでした」と後に回想している。」―『作曲家・人と作品シリーズ「ベートーヴェン」』(平野昭著・音楽之友社出版)137頁より

 こんな状況の中で、ヨハン・ネポムク=メルツェル(メトロノームを改良した人)はベートーヴェンにある計画を持ち掛けた。この時は丁度、半島戦争でアーサー=ウェルズリー将軍率いるイギリス軍がフランス帝国軍を撃破したという報がウィーンを巡っていたが、ウェリントン将軍の勝利を称賛する楽曲の作曲を依頼すると共に、この音楽を手土産としてロンドンを訪問すれば歓迎されると考えてベートーヴェンを同行させたロンドン旅行を計画していた。

 ベートーヴェンは作曲をメルツェルから依頼されると9月中には『ウェリントンの勝利、あるいはヴィットリアの戦い』の作曲に着手した。秋には弟カールの病状が回復し、12月8日に楽曲が初演された。『ウェリントンの勝利』は通常のオーケストラ編成以外にも「ラチェット又はマスケット銃(なるべく多数)」「バスドラム又は大砲2門以上」が指定されている極めて物騒な曲であった。初演はベートーヴェンの受益以外にも戦役傷病兵士の救済チャリティーの目的があったため、多くの音楽家が参加したという。ヴァイオリン主席にはシュパンツィヒ、ステージ外楽隊の大太鼓はフンメル、大砲の一斉射撃を指揮したのはサリエリ(晩年と後世でモーツァルトを殺した疑いをかけられた不憫ですごい人)だった

 曲中では行進のドラムの後、トランペットによるファンファーレが続き、イギリス軍を表す「ルール・ブリタニア」、フランス軍を表す「マールボロ将軍は戦場に行った」が出現する。

ルールブリタニア

(楽曲中の「ルール=ブリタニア」譜例)

マールボロ将軍

(楽曲中の「マールボロ将軍は戦争へ行った」譜例)

 そのあとは、戦いの様子を描いた激しい展開が続き、やがてフランス軍が退却しはじめ短調になった「マールボロ将軍は戦争へ行った」が続いた後に、華々しく現在のイギリス国歌が演奏される。

(▲神奈川フィルハーモニー管弦楽団 川瀬賢太郎指揮 『ウェリントンの勝利、あるいはヴィットリアの戦い』 神奈川県民ホールにて)

※銃声込みを聞きたい場合はApple Musicで聞くことを推奨

(4)祝典序曲1812年(ピョートル・イリイチ=チャイコフスキー)

 さて、半島戦争について「あろうことかナポレオンは兵力を減らした」と書いたが、先述の通り、これはロシア遠征をナポレオン=ボナパルトが企てたからである。

 ロシアの対イギリス通商が再開して以降、ナポレオン=ボナパルトは1812年の2月にプロイセンと普仏同盟、3月に仏墺・仏丁(※デンマーク)同盟を結成し、ロシアを包囲する一方で、大使を派遣して大陸制度の遵守を求めた。然し、当時の皇帝アレクサンドル1世は縁戚国家オルデンプルクの仏領編入を契機に露仏関係の再建を主張していた側近を更迭し、かわりに外交顧問にカール・ロベルト=ネッセルローデを任命して対仏戦争の準備を進めた。つまり、フランスと戦争する気満々だったのである。

「仏露関係が緊迫するなか、重臣スペランスキーは第一帝制の解体を前提とした仏露関係の再建を、また外相ルミアンツェフもルーマニア支配の実現に固執して対土戦争の続行・仏露同盟の温存を主張した。対してアレクサンドル一世は、バルト海貿易の中継拠点ハンザ都市、及び実妹の嫁ぐ縁戚国家オルデンプルクの仏領編入を契機として親仏派の両名を更迭する一方、外交顧問ネッセルローデ KarlBasilievich Nesselrodeを登用して対仏戦争の準備を進める。」一『フランス革命・ナポレオン戦争とロシア南下政策 一一バルト海貿易の危機と黒海貿易の成長一一 』(武田元有・鳥取大学研究成果ポリジトリ)

 こうして、ロシアとの交渉が決裂したフランスは1812年6月にモスクワへの遠征に踏み切る。

 ナポレオン率いるフランス軍がモスクワを占領したのは9月2日であった。「なんだ、3か月でロシアは折れたのか」と思われるが、実はそうではない。ロシアは徹底的にフランス軍との正面衝突を避け、ひたすら退却し続けたのである。1810年以降、ロシア国内でどのようにナポレオンとの来る戦争に備えるべきか議論が交わされていたが、皇帝は退却策を採用した。陸軍の諜報機関は陸軍大臣に対して以下のように宛てている。

「その後の経緯から、ロシアがとった作戦の原則をよく示していると考えられるのが、陸軍省の諜報機関の幹部チェイケヴィチがこの頃バルクライ(※バルクライ=ド=トーリ陸軍大臣)に提出した前述の覚書である。それによれば、「陸軍省が持つ全情報」からロシア軍二十万に対して、ナポレオン軍は四十五万と推定される。来るべき戦争は、従来の対仏大同盟のそれと異なり、国土での防衛戦となる。ロシアはこの大軍に対して「常ならざる手段」、「ナポレオンがまだ慣れていない」戦い、「敵が望むことの正反対」を実行する必要がある。具体的には、戦争の長期化都合の良い時まで会戦を回避するための退却、カザークなど非正規軍分遺隊による昼夜の攻撃、遊撃部隊などを敵に与えないための焦土作戦である。その後ロシアは優勢な数で会戦に臨んで勝利し、執拗に反撃する。騎兵隊の数と品質はロシアが買っており、追撃戦で強みを発揮できるという。ここでは、兵力の他に、スペインでの戦争を含む諸情報から明らかになったナポレオンの短気な性格や、両軍の長所と弱点などが考慮されていた。」―『一八一ニの退却とアレクサンドル一世の生命―「ナロードの戦争」考―』(池本今日子・ロシア史研究)

  つまるところ、ナポレオンが嘗てオーストリア帝国の裏をかこうとしたように、ロシアもまた、ナポレオンの予想に反して退却をひたすら繰り返す作戦を取ることにしたのである。

 6月12日、ナポレオン率いる64万の大軍はコヴノ近郊でニエメン川を越え、ロシア領へ進撃を開始した。そこにはフランス軍だけでなく、同盟を組んだプロイセン、オーストリア、ドイツ諸邦、イタリア、スペイン、ポルトガルも含まれていた。ロシアにとっては想定外の場所から攻め込まれたので、奥地への退却開始時期が前倒しになってしまった

「7月4日、アレクサンドルはドリッサ陣地近郊で、サルティコフに書簡をしたためた。「敵の勢力は我々よりはるかに勝っている。....会戦を慎重に決定しても、いずれの場合にもペテルブルクへの道を容易に開きうる。」しかし、会戦で負ければ、再起できない。前述したようにナポレオンの態度ゆえに、「我々は交渉も望みえない」。したがって、会戦を避けつつ、「唯一戦争を継続することによってのみ.....ナポレオンに対する逆転勝利を望みうる」。」―『一八一ニの退却とアレクサンドル一世の生命―「ナロードの戦争」考―』(池本今日子・ロシア史研究)

 アレクサンドル一世は初め、ドリッサでフランス軍と衝突するつもりだったが、ドリッサは捨てざるを得ず、ドリッサの放棄は首都ペテルブルグへのロシア軍侵攻という可能性の危機感を皇帝に募らせた。次はスレンモスクでの会戦を指示したものの、作戦会議で結論がでないうちに攻撃され、さらに退却することになった。これでモスクワに通ずる道は解放されてしまった

 その通り、9月2日にフランス軍はモスクワを占領した。然し、事前のうちに住民には退避が呼びかけられ、モスクワを占領した際は街はもぬけの殻、しかも夜のうちにモスクワでクレムリンを脅かすほどの大火が起こり、1週間も街を燃やしたため、フランス軍は望んだような必要物資の補給ができなかった。当時、ロシア帝国政府は火災をフランス軍の放火とみなしたが、現在ではフョードル=ロストプチン(モスクワ総督)が一部指示をしたという見方が有力のようである

 結局、ナポレオン=ボナパルトはこの大火で越冬をあきらめ、10月10日にモスクワから退却を始めた。31日にはスレンモスクからの退却を始め、11月15日に奪還、11月中頃にあったベレジナ川の戦いではフランス軍に壊滅的な被害を与え、12月2日にはコヴノを奪還し更にその勢いでワルシャワ大公国とプロイセンの領土に侵入した。フランス軍の退却はさらにロシア農民のゲリラ攻撃によって悲惨を極め、結局、ネマン川を越えて逃げ帰れたのはわずか2万5000人であった

 以上が、ロシア遠征の大まかな経緯と経過であったが、この一連の出来事を曲に仕上げた作曲家がいる。その名もピョートル・イリイチ=チャイコフスキーである

 チャイコフスキーといえば、たいへん有名なのは「くるみ割り人形」や「白鳥の湖」であろうか。「くるみ割り人形」の第12曲第4番「トレパック」や第5番「葦笛の踊り」、そして第13曲の「花のワルツ」は特に有名であろうか。ちなみに、ソフトバンクのCMでよく第14曲第5番が使用された。「白鳥の湖」で有名な曲といえば、やはり第2幕第10曲の「情景」であろうか。オーボエのしみじみとした旋律の後にホルンの力強い音で同じ旋律が繰り返される。いつきいても飽きないものである。

 さて、そんなピョートル・イリイチ=チャイコフスキーは当時、師匠アントン=ルビシンティンの弟でチャイコフスキーの親友でもあるニコライ=ルビシンティンから1881年にモスクワで開催される予定「だった」産業博覧会用の楽曲の製作依頼を受けていた。ニコライ=ルビシンティンはこの博覧会の音楽監督であった。チャイコフスキーにとって乗り気のしない仕事であったが、しかし、この産業博覧会は同時に、アレクサンドル2世の在位25年記念の祝典であった。

 チャイコフスキーは1週間という驚異的なスピードでこの作品を仕上げたが、当のアレクサンドル2世は1881年の3月31日に暗殺されてしまった。

アレクサンドル2

(▲アレクサンドル二世の暗殺 題名不明 ナロードニキが投じた一個目の爆弾は皇帝を命中せず、二発目が皇帝を切り裂いた ※画像は海外サイトから

 アレクサンドル2世の暗殺は、ナポレオンとは直接的に関係がないが、なぜ暗殺されたか説明を入れておこうと思う。クリミア戦争で敗北を喫したロシアは、真っ先に欧米諸国に追い付こうと「上からの改革」を行った。1861年には農奴解放令で2300万人の農奴を解放、次にゼムストボと呼ばれる地方自治会を組織し、地方行政改革を実施した。しかし、農奴解放はナロードニキから批判された。

 この農奴解放で、確かに農奴は身分的に解放されたが、経済的な解放は極めて不徹底であった。まず、農民は土地なしで解放された。解放農民には分与土地が与えられたが、土地所有権を獲得するには地代の16.67倍にも上る額を49年間かけて支払わなければならなくしかもその完済がなされるまで使用権は農民の属するミルに包括的に付与されていた。その上、地主階級が少しでも多く手元に残そうとしたために、分与土地面積は不十分で、地主は一定基準以上の農民保有地を「切り取り地」として自らに確保し、農民には質の悪い土地を与えた。

「而(※しか)も農奴解放のこの経済的方面は不徹底なるものであつて、真実に農民を経済的に開放するものではなかつた。即(※すなわち)土地は従来の彼等の用盆地面積を標準とし、1858年の人口調査による男子(年齢に関せず)を分配の単位として農民に分与せられしものであるが、而もその土地の所有権は旧主に存してたゞ使用権が農民に与へられたのみであり、又之は個々の農民対して与えられるに非ずして、農民の属するミルに対して包括的に与へられたのである。併(※しか)し又之と共に他方に於いて農民は賠償金を支払つて分与地の所有権を獲得するを得、賠償金は国庫が一時負担して49年賦に徴収する規定が存し、農民は之より土地を所有することを得た。」―『農奴解放後に於ける露西亜(※ロシア)の土地問題』(吉川秀造・東京帝国大学経済学部『経済論叢』)

 「開放」と称しているが、実際のところ、農民の経済状況は解放令発出前より悪化した。すなわち、農民は自らの不安定な財政を補うために副業に手を出さざるを得ず、副業に経済収入の大半を依存したようである。

「解放によって農民の分与地の不足が生じ、副業収入の有無が農民世帯の経済状態を左右していた。ごく少数の裕幅な世帯だけが農業のみで生計を立てられたが、大多数の世帯は農業生産だけでは生活できず、副業収入を求めることを余儀なくされていた。副業収入が家計に占める翻合は、裕福な世帯よりも貧しい世帯の方がずっと高く、貧しい世帯ほど一業に依存せざるを得なかったことを示している。」―『出稼ぎと財産と世帯分割 : 農奴解放から革命までのロシア農民家族に関する最近の研究』(青木恭子・『スラヴ研究』)

 このため、先述の通り、ナロードニキから農奴解放は批判され、ナロードニキは真の農民解放を求めて反政府運動を始め、ミル(共同体)を基盤に平等な新社会の形成を試みた。然し乍ら、農民の大半は政治的関心が皆無で、62年には弾圧を受け、結果的に一部は非合法活動に手を染めた。まず、1866年に革命家カラコーゾフが皇帝を狙撃したが、この時は弾丸が逸れた。1879年11月には皇帝の御召列車に爆薬を仕掛け、次いで1880年には冬宮の爆破を試み、そして最後に1881年3月31日、アレクサンドル2世の生命は馬車に投げられた爆弾により木端微塵になった。皇帝が局面を打開しようとそれまで拒み続けてきた憲法を裁可したまさにその日であった

 そんなわけで、この曲の初演は延期になってしまった。初演があったのは翌年の1882年8月30日で、クレムリン宮殿大広場での演奏だった。

 『祝典序曲1812年』では後半部で大砲(Canone)の使用が命じられている、こちらも極めて物騒な曲である(自筆スコアにはBombardon[大型金管楽器]とあるがチャイコフスキーはこれを大型のサスペンデッド・ドラムと勘違いしており、後に大型太鼓を使ってほしいこと、スコアにはCanonに類する名前を記載して、本物の大砲ではなく太鼓であるという注釈を入れるように伝えている)。

 また、楽曲中ではいくつかの曲がそのまま、あるいは変形されて用いられている。まず、冒頭で奏されるのはロシア正教会賛歌の『神よ、汝の民を守り給へ』である。

(▲『神よ、汝の民を守り給へ』聖ダニエル修道院(モスクワ)男性合唱隊 ゲオルギー=サフォノフ指揮)

 賛歌ということもあって、大変静かな曲である。スコア上では、ここはチェロとヴィオラで演奏せよと書かれているが、ウラジミール=アシュケナージ指揮のサンクトペテルブルク・フィルハーモニー管弦楽団、レニングラード軍楽隊(※現存しているか不明)、サンクトペテルブルク室内合唱団による共同収録では(※演奏は『決定版!チャイコフスキー』に収録されている)、合唱団による合唱になっている。どちらもおススメ。

聖歌

(▲『祝典序曲1812年』の冒頭8小節 チェロ1番[ファースト])

 次に、フランス国歌『ラ=マルセイエーズ』が変形して登場する。

(▲フランス国歌『ラ=マルセイエーズ』)

フランス

(▲『祝典序曲1812年』中で変形して用いられる『ラ=マルセイエーズ』の旋律)

 お分かりいただけるだろうか。『ラ=マルセイエーズ』の冒頭の旋律が奏でられている。ルートヴィッヒ・ヴァン=ベートーヴェンが『ウェリントンの勝利』で『マールボロ将軍は戦争へ行った』をフランス軍の象徴として用いたように、ピョートル・イリイチ=チャイコフスキーは『ラ=マルセイエーズ』を侵略してくるフランス軍の象徴として用いている。『祝典序曲1812年』の中では初め「快進するフランス軍」としてあらわされているようでるが、これが次第に「撤退をはじめるフランス軍」となり、遂には「撤退の最中にロシアに追撃されるフランス軍」として用いられている。

 フランス軍の撤退とロシア軍による追撃が表現された後は、冒頭の聖歌『神よ、汝の民を守り給へ』がフォルティシシモ(fff)で、オール管楽器によって奏され、この盛大さは占領から解放された都市でのお祭りの騒々しさを表す「鐘」によって更に増す。そして、この聖歌の旋律と掛け合うように坂道を駆け上るような音が弦楽器によってそうされ、華々しさが一層増している。

 さて、フランス軍の象徴が登場するのであれば、ロシア帝国の象徴ももちろん登場する。ロシアの象徴として用いられているのは、こちらも国歌であるが、『神よ、ツァーリを守り給へ』である

(▲『神よ、ツァーリを守り給へ』)

ロシア

(▲『祝典序曲1812年』中の『神よ、ツァーリを守り給へ』)

 序曲中でロシア帝国国歌は脅威のフォルティシシシモ(ffff)で演奏される。その後ろでは大砲が鳴り響き、ロシア軍の快進を表すような旋律がこちらもフォルティシシシモで奏され、フランス軍の完全な駆逐が表現されているようである。この愛国的な表現はチャイコフスキーが1876年頃にセルビア独立を支援するスラヴ慈善委員会のための演奏会の為に作曲した、『スラヴ行進曲』の終結部分でも用いられている

(▲ロイヤル=コンチェルトヘボウ管弦楽団 アントニオ=パパッノ指揮『祝典序曲1812年』 プリンセン=グラハト・コンサート2013)

ナポレオンの失脚と死

 さて、こうして半島戦争に続いてロシア遠征にも失敗したナポレオン=ボナパルトは、諸国から一斉に武力蜂起を受けた。所謂「解放戦争」の始まりである。1813年、まずプロイセン王国がロシア帝国と同盟してフランス帝国に宣戦布告、その次にスウェーデン王国、そして6月にイギリス連合王国、8月にオーストリア帝国、そして10月にはウェストファリア王国が民衆蜂起により解体されバイエルンがライン同盟を脱退して宣戦布告した。10月まではナポレオンに軍配が上がっていたものの、8月末に行われたドレスデンの戦いの後、10月18日に行われたライプツィヒの戦い(決戦)では、同盟軍30万に対してフランス軍13万という数的劣勢に加えて、ザクセンとウュルテンブルクの同盟軍側への寝返りにあいフランス軍は主力部隊を率いて撤退つまり敗北した。翌年の1813年末には同盟軍がライン川を越え、半島戦争から戻ったイギリス軍も加わって、戦地がとうとうフランス本土に移った(フランス戦役)。当初、1月に行われたブリエンヌ、ラ=ロティエールの戦いなどでプロイセン軍に勝利を収めていたフランス軍も、次第に追い詰められ、3月31日にはパリが陥落4月2日にはナポレオンの廃位が宣言され、そしてとうとう、5月にナポレオン=ボナパルトはエルバ島へ流された。しぶといことに、1815年には島から脱走し、フランス本国で再び国家元首の座についたが、ワーテルローの戦いで、合流したイギリス軍とプロイセン軍に大敗して100日あまりの復活「百日天下」は脆くも終わり、ナポレオン=ボナパルトの儚い夢はついに永遠に消えたのである


※後編はまだ続く

筆者からのお知らせ:当初、『ウェリントンの勝利、或いはヴィットリアの戦い』の動画で、アマゾナス劇場における演奏を掲載していましたが、不完全な動画でしたので、神奈川フィルハーモニー管弦楽団の演奏に替えました。不備の程、お詫び申し上げます。

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