クオリア塔(平沢進)
Artist:『平沢進』
Youtube :クオリア塔
今日は、この『クオリア塔』の歌詞について、語ります。
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この歌詞の中には、なんども『キミ』という表現が出てくる。
平沢進はソロ活動になってから、どの楽曲のどの歌詞の『キミ』も、
カタカナで書いている。
(彼は『キミ』について、明確な解釈を発表していない。
これは”『キミ』とは誰や何を指しているのか?ということを、
聴き手が想像出来るようにしているためではないか、と私は思っている。
人によっては卵の『黄身』かもしれないし。笑)
私はこの曲が発表された2015年頃、この曲のことを何の気にも留めず、
アルバムの中の一曲として、聴き流していた。
それが、2022年頃から、急激に気になり始めた。
この曲を聴くと、とてもホッとして身体の力が抜ける感覚が生まれるのだ。
私は自分自身について、長らく関心を持たずに生きてきた。
しかし『私は、何が好きで何が嫌いか。何をどう感じ、どのように捉える傾向があるのか。私は、自分のことを全くと言っていいほど知らない。自分を知らずにこの一生を終えたくない。自分自身の人生を謳歌するために、自分自身について知りたい』という欲求が芽生え始めた。
(『クラウドナイン・エデュケーション(ひとのこと)』という会社の人々と出会ったことが、その欲求が育ち始めた影響としてかなり大きい。)
そんな私が、歌詞を読んで思い浮かべたことを書きます。
歌詞をどう感じ、考えたかは、人の数だけあるから、
私は、自分がどのような想いを持っているかを知る機会として書いていま
す。
・キミ
=『感じていることも、考えていることも、発する表現も、行動も、
内外一致した、本来の自分自身。
・幸いは岩のごとくあり
=何を感じ、考えている時も、いつだってあなたは幸福である。
この身を持ち、目的を遂げるために自分が選んで
この世に生まれてきたのだから。大いに悩み、苦しみ、楽しもう。
・退廃=停滞。魂の進化など存在しない、不要だ、とする在り方。
・並んだ悲劇の虚妄、未来の灯を消す呪詛、連なる受難の投射絵
=自分が創り出したありもしない悲劇、自己憐憫。
誰かが自分に刷り込んだ、もしくは自分が取り込んだ信念の内、
自分を貶めるもの。本来の自分ではない信念。(部族的信念)
・有り得ぬと捨てられた 何もかもにキミを見る
=自分自身が「こんな自分いたらダメ」と、戒めて出さないようにしてい
る、あんな自分やこんな自分。あんな感情やこんな感情。
それらが全て『在る』。
自分で見えている『自分』。自分で新たに気づく『自分』。
自分は気づいていないが他者から見て気づく『自分』。
隠しているつもりで、他者からは丸見えな『自分』。
などなど、『様々な自分が全て存在する』ことを許した時に、
『キミ=本来の自分』へと、一歩ずつ近づく。
・行く手を偽る道しるべ いずれ同じ心象の
=今目の前に起こっていること(事象)と、その日の自分のフィルターを通して考えて捉えたこと(心象)は違う。
自分の心象のみでのみものごとを見ていると、常に『偽りの道しるべ』を作り出す状態に陥るよ。
自分の捉えている出来事が、事象なのか心象なのか、自分が意識して捉えようとしているかが重要よ。
・重なる奇跡の証左さえ キミの影にたじろぐ
=『”奇跡”には何か形に残る証拠や証明が必要だ!』と主張する価値観に
対して、キミ(=本来の自分)は
『奇跡?これが私の人生に起こっていることであり、日常です。』と、
堂々と穏やかに存在する様。
この曲は、私にとって『幸せとは何か?』と、問いかけをくれる一曲です。
過去の体験と心象を引っ張り出してきて、今を感じない自分よ。
起こっていない未来を妄想し、今をないがしろにする自分よ。
よりはっきりと、より鮮明に、私が私自身のことを自覚して生きることに
意識を向けるんだよ。
そこに、幸せな日常がある。
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