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介護ハイウェイ②


⚡急転直下の母親引率

 前回のお話はこちらです

https://note.com/elephant_urusei/n/n88dcefdb3cf8

 濃厚接触の微妙な判断の中、むしろそれが仇なす形となって、母親のショートステイ利用が不可能となりました。

「受け入れを拒否されました」

とケアマネさんから連絡が。

 もっともなことだと思いつつ、ああやはり母親も連れて行かずしてどうするのかという神様の思し召しと思っていたところがこれを父親が利用してきました。

「ケアマネさんが、’出歩くな’ と言っている」

 わたしは父に訊きました。

「ショートステイの施設側から医療的・感染防止的な意味から’出歩くな’と言われたの?
「一般的に、’出歩くな’ と」

 一般的、とは??

 今回のサービス利用制限の起点となったデイサービスのスタッフさんから状況報告の電話が入ったので、その際にお訊きしました。

「父親の話が要領を得ませんので直接お教えいただきたいのですが、まず母親は’濃厚接触者’ ではないですよね?」
「はい、濃厚接触者ではありません。もし濃厚接触者だとしたらそもそも普通にそのままご自宅にお帰ししたりいたしません」
「では、ケアマネさんから’しばらく外に出歩くなと言われた’、と父親が主張しているのですが、たとえば行政等から経過観察のために行動を制限するよう告げられているのですか? 母親は近々、指定難病で通院中の病院に診察を受けに行って投薬も受けないといけないのですが」
「日常生活は行わなくてはいけませんので、外出は避けられません。出歩くな、とはお伝えしていないはずなのですが」

 わたしは両親よりも神様の自然なはからいを取るため、父親に再度告げました。

「諦めて」

⚡⚡母の一生の願い

 仕事から戻ると台所のステンレスの天板の上に鉛筆書きの手紙が置いてありました。

『自分にはちゃんと行く責任があると思って今日も行く準備をしていたのだけど準備してたらとても疲れてめまいもする。母の一生の願いです。出発を延期して』

 泣けてきました。
 ああ いくら自分のことしかもう考えられなくなっていると言ってもあまりだなあ、と

「百回目の’一生の願い’だね」

 かわいそうかもしれませんけれども、まことのことをなすためには親子の表面上の愛と情とにからまれるわけにはいかないんです。

⚡⚡⚡これよりまだ上があるのではないか

 まさかこれ以上のことを仕組まないだろうと思っていても父親の奸智と母親の責任の完全放棄とで、ああ、人間はこういうことを考えることができてそれを実行に移す(あるいは不作為で放り投げる)ことができるんだなあ、と感嘆することを繰り返してきました

 皮肉にもそれがわたしのワナビとしての創作活動上の突飛もない、けれどもおぞましい事実そのものに基づく発想を支えてきているのではありますけれども。

 言ってみればまだこの上があるのかという『地に足の着いた突飛さ』

 自分の親が為していることですから誰に文句を言うわけにもいかないでしょう。わたしのこの状況もなんの教訓にも介護スキル上なんらかのお役立ちと情報となるわけでもないでしょう。

 ただこのことを、愚かなわたしが筆を染め、’歌’として書いているのだろうと思います。

 わたしはこのnoteでみなさんが書いておられる介護に関する記事こそが『ほんとうのこと』だと思います。

 どんなに冷静に客観的にと意図して取材された報道よりも

 今をときめく作家がご自身のご家族の介護をしたと主張して書いた小説よりも

 このnoteの中で職業として介護に携わる方やそういう方々のサポートを得て運命として介護を引き受けている身内の方々やあるいは自らが介護を受ける側の方々の

 地に足の着いたほんとうの努力

 それを誰にも知られず社会からの評価を得られずとも真摯に誠実に繰り返すまことの文章

 ベストセラーなどよりも わたしの支えとなってくれています

 みなさま、ありがとうございます。

⚡⚡⚡⚡出発前夜

 もはやどうなっても構いません

 父親母親にも 途中で何かあってもそれが寿命とあきらめてくれと言い含めました

 当然わたし自身の身にも何かあり得る予感をそれでも逃げるわけにはいきません

 行って参ります。

こんなかっこいい車ではなくてとことん実用的な、万一老人が粗相しても平気な















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