interview Ichiro Onoe:パリで活動するジャズドラマー 小野江一郎さんのこと

僕と小野江一郎さんが知り合ったのは偶然だった。

2015年にドイツのブレーメンで行われたヨーロッパ最大のジャズのコンベンションJAZZAHEAD!に行ったときに、日本人の知り合いと話していたら、「あれ、もしかして、日本から来た方ですか?」と声をかけてきたのが小野江さんだった。

その時に話していたら、長年フランスでジャズドラマーとして活動していて、近年はジェーン・バーキンのツアーで中島ノブユキさんと一緒にやっていたという話になり、ずいぶん話が盛り上がった。と同時に「この人、何者なんだろ?」と気になっていた。

日本に帰ってから、中島ノブユキさんにその話をしたら、「いやー、小野江さんは素晴らしい人で、ジェーンのツアーで僕らは彼にずいぶん助けられたと思うよ。」と言われて、ますます気になっていた。

それから3年。「今度、日本に旅行で行くのでお茶でもしませんか?」と小野江さんから連絡がきた。これはいいなと思って「だったらお茶しながらついでにインタビューするってのはどうですか?」と提案したのだった。
(取材協力:東池袋KAKULULU http://kakululu.com/ )

※実は小野江さんは澤野公房/SKETCHの作品でも演奏していたりもする。



■バークリー留学~日本での活動~ティポグラフィカのこと

――小野江さんってバークリー音大卒なんでしたっけ?

えっとね、ボストンに留学していたのは、80年から83年までです。小曽根真とかがいたころですね。納浩一くんは僕らの後かな。

留学する前にはアン音楽院(アン・ミュージック・スクール)に行ってましたね。それでバークリーに行きたいんで、佐藤允彦さんに「バークリーに行きたいんですけど、どうしたらいいですか?」って聞きに行ったんですよ。

――佐藤さんとは面識あったんですか?

ないです(笑 そこで「ちょうど、今バークリーから帰ってきた人がいるから紹介してあげる」って言われて、それでメイト音楽学院をやってる河合卓さんを紹介してもらって、河合さんのところでアドバイスしてもらって、それでバークリーに行ったんです。

――バークリーに行きたいって思った理由は?

もともとジャズは小さい時から聴いていたので、小学校のころから向こうに行きたいって思ってたんです。実家が大泉学園なので、朝霞の米軍のキャンプが近くて、学校終わるとすぐに基地のほうに行くみたいな、そういう世代だったんです。自転車で朝霞のキャンプに行くと、将校が住んでいる住宅地があって、そこはイージーライダーの形をしている自転車とかがあって、おっきいステーションワゴンから子供が何人も出てきて、そういう(日米の)生活の差がまだあったころです。夜は親父のトランジスタラジオを聴いていて、FEN(=米軍極東放送網。在日米軍向けのラジオ放送)の一番最後にカウント・ベイシー「Lil Darlin」とかかかるそういうのを聴いて育った世代なんですよ。

中学生とか、小さいときからジャズ喫茶に行ったりね。僕が新譜で待ってて買った最初のレコードはスタン・ゲッツ『Captain Marvel』。あれは74年ですね。それは待ちに待って買った。その前だと、友達とヤマハかなんかの本屋に行って、一番厚いドラムの教則本を買おうみたいな。そこにドラムの歴史みたいなのが載っていて、アート・ブレイキー、フィリー・ジョー・ジョーンズとかが載ってて。「なんかエルヴィン・ジョーンズってのが一番すごそうだから、エルヴィンが出てるレコードを買おう」ってことで、ジョン・コルトレーン『A Love Supreme』を買ったり。そういう感じですね。

――バークリーに行って、その後って何をやってたんですか?

最初、ルームメイトのデンマーク人から「イギリスに来いよ」って言われて。「アヴェレージ・ホワイト・バンドのサックスの人とピアノの人がグループを作るらしくて、テープを聴かせたら、興味持っている。だからイギリスに来い」って言われて、それで行ったんですよ。それでリハとかを始めたら、2週間お休みって言われて。次の日に新聞を見たら、その人たちがユーリズミックスかなんかのワールドツアーに出ちゃってて、イギリスからいなくなっちゃってて。うわー、これからどうするんだよみたいな笑 それでいろいろあって、バークリーの時のフランス人の友達が「夏の間、ツアーするから来ないか」って言われて、それで「じゃ行く」って言ってフランスに行ったんです。その時はドラムを持って、フランスを回ってましたよ。税関で「チーズ売るのか」って言われたりしながら(笑

その時はアメリカ人二人で、ダニー・ウォルシュってやつとトニー・ヘイズってやつの2人で、ドイツ人のヴァーナ・ギリック、ジルガ・ブクレってゲイリー・バートンのバンドのやつと、その弟のジョン・ブクレとフランス国内をツアーしてました。それが終わってから、最終的には日本に帰ったんです。

――じゃ、その時点でフランスに縁があったんですね。

そうですね。フランスにいた時にアンドレ・チェカレリ(Andre' Ceccarelli)とかレコード屋のおやじにこれ聴きなって言われて、フランスのジャズをいろいろ聴いたりしたんですよね。

それで日本に帰って、昔の友達の大石学くんのグループでやり始めて、それで彼とはずっと最後までやってましたよ。彼は阿川泰子さんのツアーもやっていたので、阿川さんのツアーにも入ってましたね。全部そういう友達の繋がりですね。大石くんとか、高橋ゲタ夫さんとかのサルサ系の人とか、城戸夕果さんみたいなブラジル系の人とか、何でもやってましたよ。その頃、30代だったかな。歳が近いのは大石くん、野力奏一佐藤達哉福田重男とかは全くの同い年なんじゃないかな。ピアノの高田ひろ子さんとかもやってましたね。道下和彦とかね。
あとは、辛島文雄さんとか、土岐英史さん、古野光昭さんとか、あの辺の年の上の方にも呼んでもらって演奏しにいくという感じでしたね。僕はあまりこだわらないので誰とでもやってましたね。今、フランスでもそうなんだけど、フランスでは若い人とやることが多いですね。

――あと、最初期のティポグラフィカにもいたんですよね。

ティポグラフィカの初代ドラマーなんですよね。どういう始まりだったかは覚えてないんだけど、今堀恒雄くんが一緒にやろうって言ってきたのかな。僕も今堀くんのギターが好きだったし、それが最初で。後は菊地成孔くんとか、ベースのポン(藤本敦夫)さんとか、もしかしたら僕がポンさんや橋本一子さんとやってたのとか、今堀くんが一子さんとやってて出会ったとか。その頃は新宿のピットインとかでやってましたね。

今堀くんが曲を書いてきて、それをやっていたんだけど、そのうち、どんどん複雑になっていって「これどうやってやるの?」みたいになって、それがどんどんどんどん進んでいった時期でしたね。ティポグラフィカの音楽はそうやって形成されて行ったんじゃないですかね。ピアノの水上聡くんとかね、みんなそれができる人たちでね。今堀くんとか、菊地くんとかって、今までと違う新しい感じの人たちだったじゃないですか。彼らが出てきたときには、音楽だけじゃなくて、ファッションとか、見た目から全然違うテンションだったから。

■フランスのシーンと人種/移民のこと

――話をフランスに戻しますけど、フランスのジャズ・シーンってどんな感じですか?

フランスはジャンルにこだわるんですね。それが僕としては残念で。ポストバップの人は「ポストバップがジャズだよ」みたいなことで、他を受け入れないところがあるんですよ。

――意外。フランスって自由そうなイメージがありますけどね。

フリーの人はフリーだし。若い世代でも、フリーなんかは全然違うって感じなんですよね。日本のジャズミュージシャンって、レンジがもっと広いじゃないですか。こっちではサルサとかブラジルの音楽をやることはなかなかないですよ、交わらないので。でも、それって自分が好きだっていう価値を大事にしているって言うか。ブラジル人はパリにけっこういるのでやることはないことはないですけど、昔と比べたらブラジル人も少なくなっちゃったので、やる機会は減ったんですよね。フランスに行って、違うものに目が開いたっていうのはいいところだったけど、そういうグループのことはありますね。どこでも世代は世代で固まりますしね。

――でも、小野江さんは若いミュージシャンともやってますよね。

若い人でいい人がいたらってのはありますよね。僕のバンドのピアニストがエジプトのジャズフェスの時にちょうど行けなくなっちゃって。それでたまたまレコーディングのセッションで会った若い人で、これはいいなって人がいたんですよ。まだ20歳そこそこのイスラエル人ですごく若いけど、いいんですよ。今、イスラエルっていいミュージシャンがいっぱいいるので。「これは!」って人だったんだけど、イスラエル人はエジプトには行けないんで、ダメだったんですけどね。

――たしかにアラブに近い北アフリカとかはイスラエルとは関係が微妙ですよね。

そうなんですよ、「怖いからエジプトに行っても大丈夫か調べてくれ」ってイスラエル人に言われて、それでいろんなところに電話したりしたんだけど、ビザが必要なんだけど、時間がかかるから取れないってことになって。

――それはヨーロッパで活動してたりないと出会わないシチュエーションですね。

そうですね。僕も日常の中ではそういうことはわからなかったんですけど、向こうでは本当に日常がそういうのを感じるみたいですね。10年以上前ですけど、ツアーでシリアに行ったときにベースがフランス人だけどジューイッシュだったんですよ、だからシリアに行くことをすごく怖がってましたね。

――なるほど。ヨーロッパでは移民がどうこうみたいな話をニュースで聞くことはありますけど、小野江さん自身も移民ですが、活動してて何か感じたことはありますか?

ミュージシャンの活動的にはあまり感じないですけど、日常のいろんなことではありますね。

――近年は移民が入るのを嫌がる人たちが表面化してるのはニュースで見ます。

それは感じますね。フランスの教育としては「移民を受け入れる」って言うのをモットーとしているんですけど、食い違いはありますよね。よくそういう話になります。移民には選挙権はないですけど、かなりいろんな保険から何からすぐに使えますから。そういう意味ではすごくオープンなんですよ。広げ過ぎなんじゃないかなって思う人もいますね。でも、そのことで、音楽関係に影響するような問題はまだ気が付かないですね。

■フランスのジャズシーンでの活動のこと

――ところで、フランス行くきっかけって何なんですか?

子供が生まれて、フランスで子供を育てたいって思ったのが理由ですね。フランス人のパートナーとの子供だったので。日本で知り合ったんですけど。音楽だったら、他の職業よりは大丈夫だろうと思っていたのもあるかもしれないですけど。

――へー。意外な理由。ということは、仕事やつてがあったわけではないのにフランスに行ったわけですよね。最初に仕事をとるためには何をやったんですか?

クロード・チアリさんとか、パトリック・ヌジェさんとか、あの辺のフランスのミュージシャンとの仕事を日本でやったことがあったんですね、パトリック・ヌジェさんとはレコーディングもやったことがあって。その時にサラヴァピエール・バルーを紹介してもらったんです。それで着いてすぐにサラヴァの事務所に行ったんです。どういうわけだったかわからないけど、その事務所と同じ敷地内で違う音楽の事務所をやっている人がいて、その人に仕事をしないかって言われて、それでそこで全部の書類を作ってもらったりできたんですね。そこは割と大きな事務所だったので、フェスとかの仕事をしました。フランスに着いて2か月とか3か月とかそんな感じで、そういうのをやり始めました。ほんとに自分がどこに行くかわからない(笑 そこからだんだんと広がっていって。

――最初のころにこの人と仕事をしたのが転機になったとかありますか?

僕はそんなにコミュニケーションが得意な方じゃないんですよ。ロニー・リン・パターソン(Ronnie Lynn Patterson)ってアメリカ人のピアニストの仕事の時はこれはいけるかなって思いましたね。

ーーロニー・リン・パターソンって、日本のピアノトリオ・マニアから人気があって、ディスクユニオンとかでプッシュされていたりするんですよ。

もう一人、この人は全然知られてないんですけど、フィリップ・ル・バライアック(Philippe Le Baraillec)って人で、知名度は高くないけど、評論家とかからは大事にされているピアニストがいるんですけど、彼とやったときはいいなと思いましたね。

ーーフィリップ・ル・バライアックって知らなかったんですけど、フランスにこんなコンテンポラリージャズのピアニストがいたんですね。クリス・チークが参加してるし。

あと、ボビー・フュー(Bobby Few)というアメリカ人のピアニストでもう15年以上一緒にやっています。彼はサックス奏者のスティーブ・レイシー(Steve Lacy)とずいぶん一緒にやっていた人で、今はもう80歳を超えています。彼は音楽や人生いろいろな面でためになったというか、演奏するごとに毎回違う音楽の旅に連れて行ってくれれるので、大好きなミュージシャンで影響を受けた一人ですね。

ーーボビー・フューって晩年のアルバート・アイラーの録音に参加してて、フランスに移住してからのアーチ―・シェップサニー・マレイとかのシーンで演奏していた人なんですね。すごくかっこいい。

――フランスのジャズシーンはどうですか?今、名前が出た人たちみたいにパリに移住するアメリカ人も少なからずいるじゃないですか。

他にはリッキー・フォード(Ricky Ford)が住んでいたりもしますしね。

――日本だとフランスのジャズのイメージも情報もあまりなくて。フリージャズのイメージがありますけどね、フランソワ・ティスク(Francois Tusques)バルネ・ウィラン(Barney Wilen)みたいな。

フリージャズはいるけど、そんなに大きくはない気がしますね。今、有名なのはミシェル・ポルタル(Michel Portal)とか、フランス人じゃないけどドラムのダニエル・ルメール(Daniel Humair)とか、あと、マーシャル・ソラール(Martial Solal)とか。もう少し年下だとベルモンド・ブラザーズ(Belmond Brothers)とか、ジャッキー・テラソンとか、その辺が今、主流であっちこっちでやってる感じですよね。今はディー・ディー・ブリッジウォーターの娘のチャイナ・モーゼス(China Moses)がどこ観ても出てるって感じですよね。フランス人じゃないけど、少し前はティグラン(Tigran Hamasyan)もあちこちでやってましたね。

――そっか、ティグラン・ハマシアンはユニバーサル・フランスだから、彼はフランスでかなり人気があったんですよね。最初にフランスに行った頃ってフランスのジャズのシーンにどんなことを感じました?

最初はジャムセッションをやっている店を教えてもらって行ったんですよ、若い人たちがやってるじゃないですか。でも、何をやっているかわからなかったんです。ベーシストが日本人の方がちゃんとしていると感じたんですよ。だからベーシストからハーモニーが全然聴こえなかった。ほんとに数少ない人しかハーモニーが聴こえないなって思って、それがまず最初だったので、自分がダメなのかなって思ったりもしました。アメリカのやり方とは違ってて、彼らなりのものだったんじゃないかな。おそらくちゃんとやってなかったと思いますけど。日本の方がしっかりしてるなって思いましたね。でも、フランス人はすごく奔放にやるんで、そこも全然違うんですよ。小澤征爾さんが旅行記に「フランスに来るとベルリンのユニゾンが懐かしい。フランスはバラバラだから。でも、ベルリンに行くとフランスが懐かしい。フランスは個人主義だから。」みたいなことを書いてたんですけど、そういうのはすごくあると思いましたね。

――フランスって、いろんな人種がいて、いろんな音楽が混ざってるイメージはあるじゃないですか。でも、さっき言ってたみたいにそこはセパレートされてる部分もあると。

あまり混じらない感じでしたよね。アフリカンやカリビアンもたくさんいますけど、その人たちはその人たちでそういうのをやってるんですよ。ジャズの中にはカリブのほうからきている人もいるから、アラン・ジャン・マリー(Alain Jean Marie)とか、あの辺の人たちはいて、彼らのビギン・トリオ(※ビギン=biguine マルチニークやグアドループのリズムのこと)って3人ともカリブの人のトリオがあって、パリに来たときにすぐに見たんですけど、変拍子を普通にやっちゃって素晴らしいんですね。そういうのもいますけどね。

――フランスといえば、マヌーシュ・スウィングみたいなイメージもありますよね。

沢山いますね、人気もありますよ。ただ、ジャズの他のことをやっている人たちはその人たちがやっていることを受け入れてはないし。マヌーシュってこっちのほうから見ると、ジャズじゃないみたいな。でも、ビリー・ラグレーン(Bireli Lagrene)なんてマヌーシュとかもできますからね。日本のギタリストから見てもジャンゴ・ラインハルトは素晴らしいし。上に行けばそういうのがあるんでしょうけどね。

■フランスで問われた「日本人であること」と『Miyabi』のこと

――フランスで苦労したことは?

言葉が大変だったのと、コミュニケーションですね。コミュニケーションのしかたも違うから、それになれるまでに結構時間がかかって。最初のころはそこに入っていくのが大変だったかな。若い人たちでフランスは料理にしてもモードにしても、フランスのそういうものに憧れてきた人たちはエネルギーがあるけど、僕はいろんな状況で来ちゃったから、勢いをつけていく感じなかったので。

――でも、それでもすっと入っていけたのは、音楽の下地にジャズがあったからですかね?

そうですね、それは問題がなかったですね。フランスでは「君は誰だ?」ってことを音楽で言えって、言われるんです。そういうことって、それまではあまり考えてなかったんですけど、それを問われることが多くて。それは自分にとって良かったですね。ジャズをやる中でも、どういう表現をするのか、どういう音を出すのかって、その個性を問われることが多いので。それまでは自分が好きなものは知ってるけど、自分がどういう風に表現するのかっていうのは自然にやっていただけだったので。

――そこで自分らしさを問われたときに日本人的な何かは出ると思いますか?

それは自分でも感じますね。だから、秋吉敏子さんのことがわかるようになったなんて言うと僭越ですけど。僕が高校生の時に、秋吉さんの『花魁譚(Tales of a Courtesan)』がちょうど出たのを買ったんですよ、その時に「これはなんか違うぞ、これ好きだな」って思ってたんですよね。そういうのが自分の中にあってフランスに行ってから、「君は誰だ?」っていうのをどんどん問われるようになった時に、やっぱりこれを外しちゃいたくないなって思うようになりました。今はその辺に関心がありますね。
90年の最後のころに宮内庁とかの音楽をやっているすごく若い方が笙(しょう)とか篳篥(ひちりき)をやられてるのを聴いたときに、リチャード・ボナボビー・マクファーリンとデュオでやって歌う時のああいう感じの音を、笙とか篳篥の特殊な音でもできるような気がして。あと、坂本龍一さんや矢野顕子さんがNYに移られてから、アコーディオンのギル・ゴールドスタインとかあの辺とやるようになって、ハーモニーも変わった気がしたんですね。その感じで雅楽とかを入れてできないかなと思ってたんです。
フランスで、福島の津波のチャリティーのサポートを頼まれたことがあって、それがきっかけで州から助成金が出て、それとは別に福島へのチャリティーのプロジェクトをやってくれって言われて。その時に、その笙と篳篥との音楽をやりたいって思ったんです。でも、やり始めてから笙のチューニングが430hlzで、他の楽器と全然合わなくて。だからそのプロジェクトの時には最終的には別々にしてやったんですけど、そこで書いた曲をカルテット用に書き直して『Miyabi』ってアルバムにいれたりしてます。日本の太鼓や民謡にも興味がありますね。

ーー『Miyabi』の中の笙と篳篥がもとになった曲ってどれですか?

タイトル曲の「Miyabi」です。篳篥は音域が西洋音楽でいう1オクターブと1音、1オクターブ10音ある独特な楽器ということで、篳篥で演奏できるものを作るというのが課題の一つでした。サックスはインプロビゼーションと、はじめのテーマのサビ部分以外はもともとは全て篳篥のパートです。ピアノは高音域のクラスターのようなものが笙のパートで、ジャズのハーモニーとの間をいったりきたりします。

ーーでは民謡や太鼓がアイデアになっている曲はどれですか?

「Despite All」ですね。曲自体は自分の中に昔からあったような気がして、割合すんなりと出てきました。北日本の雪降る遠くに山の見えるような風景です。ドラムで和太鼓をイメージして叩きたかったので、その気持ちが少しでも伝わればうれしいですね。

――なるほど。レバノンのイブラヒム・マーロフやマルチニークのグレゴリー・プリヴァもそうですけど、フランスで活動しているジャズミュージシャンは自分のルーツを前面に出してやっている気がしますね。そうやって自分はどこから来たのか、何者なのかっていうのを問われて考えざるを得ない環境なわけですね。

それをやらざるを得ないくらい、ある意味では期待されているみたいな部分があるというか。日本人であるというのを出すことが当然であると思われてるというか、そういうところはありましたね。リトアニアとか、アルメニアとか、ありとあらゆるところからアーティストがフランスにきているわけじゃないですか。彼らもそういうことを問われてる気がしますね。東ヨーロッパの人はすごいんですよ、僕のバンドのベースはハンガリー人なんですけど、フランツ・リスト音楽院を出ている人で、ベースは初見でなんでも弾いちゃうくらいすごいんですよ。東欧のはベーシストの技術はとにかくすごいですね。

■ジェーン・バーキンのツアーに参加したこと

――最後に、ジェーン・バーキンのバンドに参加したきっかけも聞かせてください。

もともとはジェーンさんが東日本大震災の津波が起きた時に「日本に行こう」って、ひとりで日本に行って。それで急きょコンサートをやろうって話になって、そこで集まったのが中島ノブユキさんをはじめとした4人だったんですね。
そのあと、ジェーンさんが日本からフランスに帰ってきて、事務所から「アメリカのツアーがある」って言われたときに、そのテーマを「日本」にしようってなったみたいで。それで中島さんを中心にしたプロジェクトが始まって、ヨーロッパ系とパシフィック系のそれぞれ2つのグループを作るってことになって。パシフィックのほうは日本でやられた4人がやって、ヨーロッパの方が現地調達ってことで、中島さんが探されたそうなんですよ。それで僕のところにサラヴァからと、パリに住んでいるピアニストの村山浩くんからと2つから連絡が来て。福島のためだったらやりますよってことで参加したんです。

――それまでに面識全くなかったんですね。

無かったです。僕はジェーンさんのことも知らなかったんです。

――ははは、そこでパシフィック側じゃなくて、ヨーロッパ側のバンドで小野江さんが入ったのも含めて、いろいろお面白いですね。

でも、ジェーンさんの名前は一回だけ聞いたことがあったんですよ。ドミニク・フィヨン(Dominique Fillon)ってピアニストが日本でツアーやったときに参加したんですよ。そこで九州に行ったときに、九州のプロモーターの方からジェーン・バーキンと仕事をしたことがあるって言われたのは覚えていて名前だけは聞いてたんですけどね。その人がどういう人かは知らなかったんですよね。僕はいつもそんな感じなんですよ。

――小野江さんはいつも起きたことを受け入れて楽しんでて、それがまた何かに繋がったりしてますね。

僕はその時に初めてチャリティーをやったんですよ。でも、ベースの古野さんが刑務所で演奏されているのとかは知っていて、いずれ自分もやれたらなとは思っていたんです。それで福島のことがあって、何かできるんだったらってことで。次の年に日野皓正さんと一緒にパリでチャリティーをやったんですよね。ジェーンさんから始まって、福島へのチャリティーが続いたのはすごく良かったと思っています。

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interview Ichiro Onoe:パリで活動するジャズドラマー 小野江一郎さんのこと

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