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世界の終わり #7-3 グロウ アップ


          *


「もうすぐ焼きあがりますからね」という興梠のおばぁちゃんは、談話室に置かれたホームベーカリーを指差してニコニコと微笑んでいる。
 ぼくも微笑んで返すが、心の中では、コオロギのおばぁちゃんって音だけを聞くと童話の中に登場するキャラクターのようだな。なんてことを思ったりしている。
 初対面ながら、興梠のおばぁちゃんはぼくと顔をあわせるなり大粒の涙を流して、それでいて顔がしわくちゃになるくらい微笑んで、ぼくの手を引き、談話室へ連れて行った。

 談話室には沢山のお年寄りが集まっていて、ほぼ全員が〝特養・三田井〟という別館施設の入居者らしかった。
 お年寄りたちは一様に、ぼくが着ている上着を見て、ぼくの顔を見て、そしてぼくが手にもっていた封筒の束を見て両手で口を覆い、瞳を潤ませた。
「ありがとう」
「ありがとう」
 次々と思いもしなかった言葉を投げかけられて、握手を求められて、沢山の、本当に沢山の溢れんばかりの感謝の気持ちでぼくは包みこまれた。
「ありがとう」
「ありがとう」
 手にもった茶色い封筒の宛先に記された名前を見る。近藤聡子様と記されている。ぼくは近藤さんの前に立って、手にした手紙を近藤さんへ手渡す。ありがとうね。本当にありがとうね。この手紙は亡くなった夫が、わたし宛てにだしてくれた最初で最後の手紙なのよ——そういわれて、ぼくは微笑みながら頷く。頷くことしかできない。
 手紙を届けたのはぼくだけど、取ってきたのは荒木だ。
 本来、感謝の言葉は荒木が受けるべきなのに、ぼくが感謝されてしまっている。
 家族五人が写った色あせた写真は、桑折さんという小柄で白髪のおばぁちゃんに渡した。桑折さんはずっと泣きじゃくりだった。写真を受け取ると、桑折さんはなにもいわずにぼくの腰にしがみついて大泣きした。桑折さん、桑折さんと、周囲のおばぁちゃんたちが慰めるように名前を連呼する。
 ——あぁ、
 なぜ荒木は危険を孕んでいる九州上陸を受け入れていたのか。
 専門店や問屋だけでなく、コレクターの家を巡るコースの提案を店長に申しでたのか。
 時折、寄り道して見知らぬ民家やマンションに入っていた理由。その度にふくらみを増していた上着のポケット。
 疑問に感じていたことがぼくの中で氷解する。
「みなさんは、九州のご出身なんですか」
 わかりきっていたことだけど、そばにいたひとりのお年寄りへ尋ねてみた。
 尋ねられた老婦人は、受け取った手紙を胸にあてて、何度も何度も無言で頷いた。
「カケルくんはどうしたの?」近藤さんに尋ねられる。
 返答に詰まった。
 でも、心境を表情にだしたりはしない。
「本当にもってきてくれたんだねぇ」誰かが呟いた。
 顔を向けて声の主を探す。だけどわからなかった。誰が発した声なのか特定することができなかった。談話室には沢山のお年寄りが詰めかけている。皆が皆、口を揃えて感謝の言葉を述べているけど、荒木が九州で探しだしてきた手紙や写真を受け取ったのは、ここに集まった者の二割にも満たない。
 そしてぼくの手の中には一枚の色あせた写真が残されていた。
 凛々しい男性と、白いワンピース姿の女性——ふたりに挟まれて、少し恥ずかしそうな表情をした女の子の写った家族写真が一枚。
「長友さんの写真ね」写真を眺めていたぼくへ近づき、近藤さんが語りかけてきた。「残念だけど、先週亡くなってしまったのよ、写真に写っている長友さん」
 ひんやりと降りてくる沈黙。
 そして鼻腔をくすぐる、とてもよい香り。
「ほうら、できた。焼けたわよ、米粉パン」声のした方向へ目を向けると、ホームベーカリーの蓋を開いた興梠のおばぁちゃんが、ぼくをまっすぐ見つめて微笑んでいた。「白石さん、是非食べていってね。本当に美味しいのよ、できたての米粉パン」
 唇を噛み締めて、それでもぼくは表情を作る。
 沢山のお年寄りに囲まれて、沢山の感謝の言葉を述べられて、両手のひらでは受けとめきれないくらいの親切と優しさを、ぼくは指の間からポロポロと零してしまっている。
 一枚の写真。
 たった一枚ではあるが、大事な大事な、なによりも大事な一枚の写真を、ぼくは持ち主に届けることができなかった。
 談話室に広がる焼きあがったパンの良い香り。
 テーブルの上に載せられた飲みかけの紅茶が端に寄せられる。

 ——なぁ、荒木。
 なぁ。教えてくれ。

 上着の裾を握り、しっかりと握り締め、馬鹿みたいに強く拳を握り締めて、荒木、荒木、荒木と、いなくなってしまった男の名前を頭の中で反復する。
 談話室内を見回した。
 縋(すが)るような沢山の目が、ぼくの姿を捉えていた。

 ——ぼくは、なんといえばいい?

 かたちのいいパンがテーブルの上のお皿へと載せられる。
 どうすればいいんだろう。なんといえばいいんだろう。こんなとき、荒木だったらどう応じただろうか。短いつきあいではあったけど、荒木のことを古くからの知人のように思っている——なんだろう。なぜだろうか。なぜだかわからないけど悔しい。そして羨ましい。ぼくが荒木ならばどうする。なんという。
 いや——
 ぼくだ。ぼくはどうする。
 ぼくはなにを話す。
 なにを、どのように話す。


 ぼくの中で既に答えはでているじゃないか。


 口を開いていた。
 言葉を発していた。
 ぼくはぼくを囲む人たちへと向けて、言葉を発していた。
 謝罪や慰めではなく、決意の言葉を。
 必至に保ち続けている笑顔を顔に貼りつけたまま、この笑顔が本当の笑顔に変わることを願いつつ、ぼくは喋り続ける。

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