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おはよう、アカリ(1)


 チック、タック。
 チック、タック。
 頭頂を二度叩かれた目覚まし時計が、うつぶせになりながらも囀り続けている。その〝めげない逞しさ〟に感心することしきりだけれども、構ってはいられない。ぼくは目覚まし時計を横目に見つつ、足元に転がった文庫本を跨いで、きみへと近づく。
 寝息をたてているきみへと、ひそやかに。
 不意につま先へとなにかが触れた。おもむろに視線を下げる――と、きみのスマートフォンだ。目覚まし時計と違って早々に沈黙したスマートフォンが、縋るように寄り添ってきていた。シーツと同じ純白のスマホケースには、ウサギのイラストが描かれている。ラッパを手にもって吹いている、目つきが悪い白ウサギだ。
 目を逸らしつつそっと押しのけて、半歩分横へ移動。
 顎をもちあげてきみを眺めると、まず目にとまるのは緩くカーブした長い睫毛。整えられた眉。艶やかな髪。一本だけはぐれた髪が寝息でふるふると振動していて、くすぐったそうに見える。
 左の頬にふたつならんでいる小さなほくろにも、髪は触れていて、軽微に振動している。
 気にならないのかな?
 くすぐったくない? ぼくならすぐ払いのけるけど。
 まさか我慢しているとは思えないから、髪の存在に気づかないくらい深く心地よい眠りについているということだろうか。いつもは目覚まし時計が鳴ると同時に起床して、伸びをしながら爽やかな声で「おはよう」と呼びかけてくれるきみが、一向に目を覚さないのは、珍しいことだ。
 少し距離を縮める。
 きみの顔が近づく。
 甘い匂いが鼻腔をくすぐった。
 目と鼻の近さに近づいても、きみは同じ姿勢を保ったまま。ぼくのことに気づく様子すらないので、なんだか心寂しくなってくる。暗然たる気持ちに。だから躊躇せず、遠慮なしにさらに距離を詰めて、きみに触れてみて、嫌がる声と表情なんてお構いなしに耳元で〝起きて〟と、大きな声で呼び――呼びかけるなり、
「もうッ!」少しノイズの混じった怒声で返された。
 かたちの良い眉が歪む。
 細まった目からわずかに光が消える――けれどもすぐに、
「おはよう」
 温かな息の中へ溶かし込むようにして、きみは柔らかい言葉を投げかけてくれる。
 癒される微笑みが目と鼻の先に。ぼくは呼応するように無言で瞬きしながら、クールさを装って身体を引くけれども、待ち望んでいた時間が動きはじめたことへの喜びを禁じ得ない。
 おはよう。
 ぼくは心の内側で、呼びかける。
 きみの名前を、呼ぶ。

 おはよう、
 アカリ。

 微睡みと怠惰の試練を乗り切ったきみは洗面所へと移動し、毛先の緩くはねた髪を丁寧にヘアブラシで梳きはじめる。
 ブラシの色は黒。きみの長く艶やかな髪と同じ色だが、輝きのない無彩色で味気ない。だけれどもきみはとても気に入っている様子で、今日もハミングしながら使っている。
 耳をそばだてると、メロディーの背後で微かに、髪を梳く心地よい音が――絡まっていた髪がほどける音が。ぼくは、しばし、音だけの世界に浸って、きみの織りなす音楽と存在そのものを心から楽しむ。
 粉雪のように舞う、たくさんの音の粒。
 粒はぼくの内耳を震わせて、続けざま首から肩へ。そして全身を震わせつつ、爪の先から体外へと抜けていく。
 かぶりを振りながら顔をあげて、きみへ目を向ける。髪を梳くきみを見つめる。
 ブラシが上下するたびに温かな香りが拡散されて、室内の色と空気が様変わりしはじめた。
 ぼくは濡れ落ち葉さながらに行動しているけれども、邪魔にならないよう距離を置いて、引戸の敷居あたりにとどまっている。じっと、とどまって、きみを観察しているだけなのだけれども――
「〝また〟そこにいるの?」呆れたような口調で言われて〝雑に〟身体を押された。
 姿勢が前のめりに。
 視界が傾ぐ。
 足に力を入れて踏ん張ろうとしたが、駄目だ。ぼくの抵抗は微力極まりなくて、あっさりと場所を移動させられてしまった。
「嫌がらないで。ほら、動く。動いて。隅に行って」
 また身体を〝雑に〟押されて、転びそうになる。
 どうして?
 どうしてそんな風に扱うの?
 いつもは優しいきみが時々、なぜだか時々こんな風にキツく当たってくることがあって、その度にぼくは辛くなって、悲しくなって、憤りを覚えてしまう。
 だけれども決まって、必ず――ほどなくして、
「ごめんね、そこでちょっと待ってて。セットし終えたら、すぐにご飯の用意するからね」
 ほら。
 このとおり。
 きみの声と態度は柔らかなものへ戻って、見慣れた優しい笑みをこぼしてくれるんだ。
 だからぼくも気持ちを引きずったりせずに姿勢を正して、ゆっくりした瞬きで応じる。
 ……応じた瞬間にタイミングよくお腹の虫が鳴いた。
 念のために言っておくけど、ぼくは朝ご飯の催促目的で、きみのあとをついて回っているわけじゃないからね。きみが外出するまでの時間を、一緒に過ごせる朝の貴重な時間を大事に、有意義に使いたくて、一連の行動をとっているんだ。いや、まあ、朝ご飯のことが頭にはないのかって問われると首を縦には振れないけれども、それはそれでなんというか――
「お待たせ。ネコさん。さ、ご飯にしようか」
 名前を呼ばれて自然と尻尾がもちあがる。
 きみが歩きだす。
 ぼくは急いで駆けだして、きみのあとを追う。きみを追い抜く。
「ちょっと。ちょっと待って、ネコさん。ネコさんッ?」
 きみが再びぼくの名前を呼んでくれる。ネコさん。ネコさん、と。
 ぼくは尻尾をさらにもちあげて、くるくる回る。きみよりも先に到着したご飯皿のまわりをくるくる回って、きみと、きみの言葉を待つ。
 足をとめて顔をあげると、そこにはやっぱり愛おしい笑みがある。



          *


 きみと出会ったときのことを夢に見て、ビクリと跳ねながら目を覚ました。
 温まった毛布とぼくとの間に、冷たい空気が入り込む。身体を起こす。伸びをする。掛け布団の膨らみが上下しているのを目にしたら、ふううっと鼻から息が抜けて、力も抜け落ち、身体の芯が消失したような感じになった。
 ふわふわの毛布の中へと沈み込む。
 身体がハグされたみたいにあたたかくなって、まぶたと瞬膜を開けていられなくなってくる。
 緩やかになってきた心音へと耳を傾けつつ、肘を折り曲げて胸の下へと仕舞って閉瞼。
 ――あぁあ。
 こんなにも安らかな環境で日々暮らしているというのに、跳ね起きてしまう夢を見たのはなぜだろう?
 きみと出会った日のこと。
 出会った日の夢。
 きみに見つけられて、抱きあげられたあの日、あのときのことを、どうして夢に見たんだろう?
 不快極まりない湿った落ち葉の上に横たわって、一歩も動けなくて、どうしようもない不安と恐怖に抗うべく大きな声で鳴いていたあの日のことを――目の前を横切るすべてのものに対してあらん限りの力をだして、声を振り絞って、戦っていたあの日のことを。
 そんなぼくへと、ゆっくり、ゆっくりと近づいてくるきみが、きみの存在そのものがとてつもなく恐ろしく感じてしまったぼくはさらに大きな声で鳴いて、鳴き叫んで、必死に抗っ――

 あ!

 音が。
 メロディーが。
 やかましい電子音のメロディーが鳴りはじめた。落ち着かない気持ちにさせる不快で厭わしいメロディーが。
 素早く身体を起こして、騒音源であるスマートフォンから距離を取る。冷たいフローリングの上へ足をのせる。朝日の侵入を防いでいる遮光カーテンの端まで移動したところで、きみがゴソゴソ動きはじめたのを感じ取った。
 顔を向ける。
 目を凝らす。
 白く柔らかな掛け布団から複数の糸くずが舞った。ぼくはテーブル横のクッションの上で両手を揃え、億劫そうにスマートフォンを操作するきみから名前を呼ばれるのを待つ。やがて電子音が止み、スマートフォンが毛布の上に投げだされて、数秒の静寂がおりてくる。きみはまぶたを擦りながら伸びをすると、枕元に置いてある目覚まし時計の頭頂を叩いたのちに、ぼくのほうへ顔を向けた。
「おはよう、ネコさん」
 少し掠れているけれども、柔らかくて、優しい声。
 待ち望んでいた呼びかけへと瞬きで応えて、きみをまっすぐ見る。
 じっと見つめ続ける。それからきみが床へ足をおろしたタイミングで腰をあげて、床を擦るスリッパの音について行く。薄暗かった室内に、廊下に、洗面所の中にオレンジ色の灯りが点った。そのひとつひとつの点灯を確認している間に、きみは鏡の前に立って髪を梳きはじめていた。遅れて到着したぼくは引戸の敷居あたりに座って、真似るように毛繕いしながらブラッシングの終わりを待つ。
 静かに待つ。
 待っていただけなのに、
「ほら、またッ!」
 え。
 なぜ? どうして? 
 素早く近づいてきたきみから、強く身体を押された。
 転倒しそうになる。足を踏ん張ってどうにか耐える。
 なぜなの? どうして怒鳴ったの? 身体を押したの?
 顔をあげてきみを見つめると、
「そこに座っちゃダメって、いつも言ってるでしょ」
 きみはまたもやぼくを押して、さらに強い口調で怒鳴ってくる。
 あぁあ。嫌だ。ホント嫌だ。本当に嫌で嫌でたまらない。なぜ急に怒るのか、怒鳴るのか理解できないし、思い返してみれば昨日もここで、同じタイミングで、怒鳴られたよな? 〝雑に〟身体を押されたよな? あぁあ、もう。嫌だ、厭だ。本当に嫌だ。
 よみがえる。
 よみがえってくる。
 なぜかきみから怒られた過去の記憶が、次から次へと頭の中で再生されはじめる。
 ここで。洗面所で。あるときは廊下で。きみの部屋で。様々な場所で、ぼくを叱りつけるきみの声と表情が浮かぶ。いくつもいくつも浮かぶ。浮かんできてしまう。
 いま脳裏をよぎったのは、きみの部屋。夕刻。ご飯の時間。用意してもらったカリカリを頬張っているぼくの背後から近づいてきたきみは、『ネコさん、ダメでしょ!』急に腰のあたりを掴んで、身体を後方へ引っ張りつつ、『一気に食べちゃダメって、いつもいってるでしょ!』頭の骨にまで刺さってくる鋭い声で叱って、ぼくを〝雑に〟扱う。〝雑に〟押し退けて、ご飯を取りあげる。
 次によぎったのはベッドの上で遊んでいたとき。柱で爪を研いでいたとき。寝ているときだって、きみは容赦ない。あぁあ、嫌だ。どんどん思いだす。思いだしてしまうのをとめられない。まだだ。まだまだ思いだす。
 ティッシュで遊んでいたとき。
 ビニール袋を齧っていたとき。
 ぐうぅうって喉の奥から変な声がでるくらい雑に抱きあげられたのはなにをしていたときだっけ。廊下を走っていたときかな? トイレを終えてテンションが高くなって、ホントなんとなく走っていただけなのに急にきみが近寄ってきて大きな声で怒鳴って、それから――
「そう、そこ。そこで待ってて。そこなら、間違って尻尾を挟んだりしないからさ」
 突然きみは低く屈んで、優しい声を発して、ぼくの頭を撫でてくれた。
 びくん、と身体が強張ってしまったけど、すぐに喉の奥から、ゴロゴロと音が鳴りはじめる。意図せず。無意識に。ゴロゴロ、ゴロゴロと。
 あぁあ――そうだ。
 そうなんだ。
 そうなんだよね。
 どんなに大きな声で怒ったとしても、いつだってきみはすぐに普段どおりのきみへと戻る。
 柔らかく微笑み、優しく声をかけてくれるきみへと、すぐさま戻るんだ。
「うん。えらいね。そこで待ってて。セットし終えたら、すぐにご飯の用意するからね」
 ゴロロロ。
 ゴロゴロ、ゴロゴロ。
 頭は撫でられ終わっているのに、喉の奥から鳴る音をとめられない。
 首肯するようにゆっくり瞬きして応えて、きみの足元に座って両手を揃える。
 気の所為か、きみの声がまだ少し掠れているように感じたけれども――ふわり、鼻先へ落ちてきた抜け毛にびっくりして、慌てて払いのけている間に忘れてしまった。
 あれも、
 これも。
 とても大事だったことも。


〈つづく〉

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