見出し画像

「救い」についてのキリスト教とその周辺

年末です。年の瀬です。
年始に初詣に行くと、たまに看板を掲げてメガホンを通じて訴えてくる人たちがいます。

「汝は罪深い」

誤解のないようにいうと、全てのキリスト教の方が初詣にこうして街に出て宣教しているわけではありません。とはいえ私も子供の頃、「人は生まれながらに罪がある」とするキリスト教の教義にだいぶ違和感を感じ、あまり近寄らないようにした方が無難かな、と思っていました。

ところが、リベラルアーツ周辺を学んでいくうちに、徐々に聖書学習にハマってしまったのだから人生わからないものです。

人は死んだらどこへいくのか

さて、キリスト教に限りませんが、宗教の教義によくみられるものに「救済」があります。
宗教を信じない人でも、「人は死んだらどこへいくのか」「死んだらそれきり、自分のアイデンティは途絶えるのか。それとも死後の世界があるのか」「死後の世界があるとしたら、自分は死後どうなるのか」、少しは気になったことがおありかと思います。自分ごとでなくても、親しい方が亡くなったときは死後の冥福をさまざま願うと思います。

宗教がここまで力を持ったのも、古の時代から今日まで、貧富や身分の差に関わらず死は避けられず「自分の死後どうなるか」の説明を体系だって行えたのが(それが正しいかどうかはともかく)宗教であったことが大きいでしょう。

今日は、リベラルアーツ(宗教学)の一環として、「救済」についてのキリスト教、およびその周辺はどのように考えているのか、についてまとめてみたいと思います。
(キリスト教ではあくまでこうなっている、ということなので、それらの教義を押し付ける意図は私にはありませんので、その旨ご理解ください)

キリスト教の「原罪」について

まず初歩として、キリスト教におけるテーマの1つ「原罪」と呼ばれているものについて説明します。
キリスト教では、世間一般の人からクリスチャンに至るまで、全ての人が生まれた時から罪を背負っていると説きます。その根拠が、旧約聖書の創世記において、人類の祖先であるアダムとエバ(イブ)が禁断の知恵の実を食べるという罪を犯したことにあるとされています。

狡猾な蛇に唆されてのことなのですが、まず罪の1つが、「食べてはいけない」とされた神の言いつけに背いたことにあります。
それだけでなく、アダムとエバは知恵の実を食べたことで現世の人間らしい「知恵」が身についてしまいました。
互いの裸を恥ずかしがり、それだけでなくアダムは「この女が私に食べろと言ったのです」と言い、エバは「この蛇が私をそそのかしたのです」と、あろうことか神様に言い訳をするという「知恵」まで発揮します。

これらが象徴することは、これを機に人類は神の教えではなく、自分の限られた知恵をもとに物事を判断するようになったということです。旧約聖書では、その後の人類(描かれるのは主にユダヤ民族ですが)の多くの過ちや争いについて描かれていきます。

その原罪を、今の人間も受け継いでいる、というのがキリスト教の立場なのですね。そして、その罪を背負ったままだと、その人は救済されません。要は「天国に行けない」ということになります。

どうすれば救済されるのか

宗教学を学ぶ中で、キリスト教では救済についてどう教えているのかについて色々調べてみたのですが、これが思った以上にまとまりがなくて私は驚きました。

私たち一般人の感覚からすると、善行を行っている良い人であれば救済される(天国に行ける)のでは、となんとなく思われると思います。
実際、そのように教えている神父(カトリックにおける先生)や牧師(プロテスタントにおける先生)の方は多くいらっしゃるようです。

しかし、聖書により厳密に答えを求める宗派の方々からすると、これは「とんでもない話」のようで、知性・霊性限りある人間が行いの差異程度で天国に行ける・行けない、と考えること自体がおこがましい、という捉え方をします。

(ハーベストタイム。クリスチャンの間では有名な団体です)

世間一般の感覚からするとちょっと変わった捉え方ですね。「お、おう」みたいな。

ではどうすれば救済されるのか、ですが。これもまたいくつか考え方があるようです。
1つは「予定説」です。主にカルヴァン派(プロテスタントの一派)のとる立場ですが、これによると救われる人と救われない人は生まれた時点で神によって決められていて、人の行い程度ではこれを覆すことができない。とされています。なんとまぁ……。
そのカルヴァン派の方々は、これを前向きに捉えます。自分は救済側として選ばれているはずだ、と考えるのです。
カトリックの人たちが金銭は罪と捉えるのに対し、カルヴァン派の人たちは「懸命に働き世に尽くすことが、自分たちが選ばれていることの証明と確信に繋がる」と考えます。逆説的ですが、これがプロテスタントのカルヴァン派やピューリタンの人たちの考え方であり、これがアメリカ合衆国の建国と繁栄、資本主義の勃興へ繋がったという分析(経済学者ウェーバー「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」)があります。

もう1つは、救い主であるイエス・キリストを信仰することで罪が贖われ、救済されるというものです。イエスが十字架にかかられたことで、全人類の罪を肩代わりしてくださった。しかし、救済にはそれを信じる必要があります。こちらは、信じれば救済されるのですから、ある意味では人の行い(=信仰)で救済に近づける余地があることになりますね。

さて、厳密にはキリスト教の枠内には入らないのですが、別の立場をとる人たちもいます。それは万人救済説(ユニヴァーサリズム)という立場です。
つまり、「すべての人たちは初めから救済されている」というものです。

その理由は、イエス様が肩代わりしてくださったので、というものや、そもそも原罪などというものはない、とするものまで様々です。
こちらはなかなか楽観的ですね。生粋のキリスト教の方々からすると、これは異端的な考えになるようです。

救済されないとどうなるのか

これについても、キリスト教では宗派によって違います。

多彩なのはカトリックです。
地獄の他に、煉獄リンボー(辺獄)といった死後の「場所」が存在します。

カトリックによれば、罪には大罪と小罪があり、大罪は人殺しや盗み、姦淫などが該当します。小罪はちょっとした罪(日曜日に礼拝にいくのをサボったりなど)。

大罪を犯すと、人は地獄へ行きます。小罪を犯すと煉獄です。ちなみにリンボーは、洗礼を受ける前に死んでしまった幼な子が行くところとされています。
苦しみの度合いは、やはり地獄が圧倒的に苦しく、煉獄も罪を焼き清めるところとされていて、苦しいに違いありません。リンボーは、苦しくはないとされていますが、天国の恩恵を受けられないことには変わりません。

プロテスタントではここまで多彩ではありません。ただ、教義の中で、やはり地獄は存在します。というのも、聖書にそう書いてあるからです。聖書の中で、イエス・キリストも地獄について言及されていて、カトリック・プロテスタントに限らず、それが地獄を信じる根拠となっているわけですね。聖書はクリスチャンにとって、何にも勝る根拠なわけですから。

つまり、こうしたところに行くと、天国の恩恵は受けられないわけです。

結局、何が真実なのか

色々みてきましたが。まぁなんとも、あまり心地良くない話だったかもしれません。地獄のような苦しみの場所への道は多く、天国に至る道はイエス・キリストへの信仰を通る必要がある、というわけですから。少し強制感があるのは否めません。
この教義だと、無邪気にクリスマスを由来も知らず楽しんでいる私たち一般人は天国に行けそうにありません(笑)
歴史的にみても、キリスト教が多く幅を利かせたのは、この教義の性質によるところは大きいと思います。

さて、私emadurandalの取る立場は、というと、私はイエス・キリストの実在やその恵みは信じていますが、地獄というものは信じていません。
キリスト教の地獄と信仰を迫る教義には、やはり少し従いにくいものを感じています(と言いつつ、聖書を学んでいたりするのですが)。

私は別に信じている信仰がありまして、それは「神との対話」という書籍にある世界観です。それはまた別の機会にお話しできればと思います。手短にいうと、前述の万人救済説に該当します。

今回は、今までの自分の調査をまとめる意味もあり、「救済」についてのキリスト教とその周辺の立場について書いてみました。
皆様のリベラルアーツの学びの多少でもお役に立てたなら幸甚です。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?