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つれづれ雑記帳

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他のカテゴリーには入らない、とりとめもない日記的なものを、ここに集めました。
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#生きる

「家族の絆」と言う言葉で簡単に済ませていいのだろうか〈老々介護〉

私は今年から地域の某役に就いたのだけど、その会のメンバーが「現役を退いたご年配の方々」で構成されていることもあり、最近、私より一回り・二回りも年上の人と話す機会がウンと増えてきた。 そんななか、今日もたまたま某会で一緒になった「もうすぐ70歳になる」という女性と、空いた時間にいろいろお話をした。 その方(Aさん)は、20歳になってすぐの頃、お見合い結婚で今の家に嫁ぎ、厳しい義両親の下で「嫁」として生きてきた人だ。 そんなAさんは、役の会合で雑談タイムになると、いつも自分の

逃げても逃げても追っかけてくる人間関係の悩みは、自分の人生の糧になる

人間関係って、本当に難しい。 悩みの渦中に居るときは、どこにいても、何をしていても、絶えず悩みの原因になっている相手のことを考え続け、うまく立ち回れない自分を責めて卑下し、自分の居場所のなさにも失望し、「自分はちっぽけで無力で存在価値がないダメな人間なんだ」と情けなく感じられて、心がどんどん辛くなる。こうしてメンタルがどんどん沼に沈んで落ちていく。 しかも、こんな状況では、自分の今の様子を冷静に俯瞰して見つめることはできないし、ましてや解決に向かって行動する気力も湧かない

私たちは「若い者は簡単には死なない」と勝手に思い込んでいなかったか

先日、有名な俳優さんが亡くなったニュースを見て、私は彼のファンではなかったけど、テレビ等で見かけた彼の美しい笑顔を思い出し、ショックを受けた。 数ヶ月前のコロナ禍中、やはり有名な人が何人か感染によって命を落とし、それもかなり衝撃的だったが、それとは違う衝撃だった・・・。 ◇◇◇ 今までも、たくさんの訃報があったけど、それまでは「人が亡くなる」ということを、どこか他人事のような気持ちで聞いていて、遠い世界の話に受け取っていた。 ところが、今回は、グッと身近なものに感じら

一年前の私へ、そして一年後の私へ。

今朝、カレンダーを一枚めくって、6月から7月に替えた。 早いなぁ…。もう半年が済んじゃったんだね。 コロナのせいで、年が明けてから昨日までの6ヶ月間は、フワフワと不思議な世界を漂っていたような気がする。しかも、今も現在進行形でコロナ禍は続いている。今だに出口は見えないけど、それでも何とか無事に私たちは生きている。 この半年の間に、私は家の中を断捨離し、家電を買い換え、我が家にAmazonのアレクサを導入し、アプリを使って外国語を学び始めた。外国語に至っては、先日「連続10

生きるって・・・

先週末、私はいろいろな人に会った。 いろんな人と話をして、ふと感じたこと。 過去に生きている人 今を生きている人 私は、もう過去に生きている人とは話が合わないなぁ…と感じた。 過去に生きている人たちは、もう何十年も前のことを、つい今しがた起きたの出来事のように生々しく語り、過去の人間関係のパワーバランスを今も引きずり、昔の話を何度も繰り返す。 そう、「今」が語れないのだ。 今の自分を語らず、昔のことばかり語って自慢する。 私は、もう昔のことはどんどん手放して、「

エゴの共食い

この娑婆は、皆がエゴの共食いをしながら生きている世界だ。 愛なのか?エゴなのか? その境界線は非常に曖昧である。「愛」なのか「エゴ」なのかサッパリ見分けがつかないまま、人は確信に満ちた表情で「愛」を語り、愛に見せかけた安っぽいパッケージで「エゴ」を包み隠し、勿体ぶって丁寧に自分の「エゴ」を他人に押しつけながら、優しい言葉を吐き、優しく抱きしめ、その代償として人から「愛」を搾取するのである。 そう、「愛」と思い込んでいるものは、実はそのほとんどが「エゴ」でしかない。 「

もう機能しない古いシステムは手放し、自分の感性を信じて生きる

最近、ふと感じたこと。 鈍感じゃないと生きていけなかったんだよね。 昔は…。 人々の意識が「人並み」という価値観に縛られていたから、個人の気持ちや個々の感覚よりも、「人並み」のライフパターンに自分を適応させ合わせていくことが尊しとされていた。 だから、常に「集団」の中で他と競い合うことで個々の価値が決められていく・・・というシステム。集団の中での自分の立ち位置とか、集団への貢献度とか、集団としての価値とか・・・云々。そこで個人の存在価値まで定められてきた・・・。そんな時代