見出し画像

「家族の絆」と言う言葉で簡単に済ませていいのだろうか〈老々介護〉

私は今年から地域の某役に就いたのだけど、その会のメンバーが「現役を退いたご年配の方々」で構成されていることもあり、最近、私より一回り・二回りも年上の人と話す機会がウンと増えてきた。

そんななか、今日もたまたま某会で一緒になった「もうすぐ70歳になる」という女性と、空いた時間にいろいろお話をした。

その方(Aさん)は、20歳になってすぐの頃、お見合い結婚で今の家に嫁ぎ、厳しい義両親の下で「嫁」として生きてきた人だ。
そんなAさんは、役の会合で雑談タイムになると、いつも自分の姑さんの話をしてくる。Aさん自身、もうお孫さんがいるというのに、今も「A家の嫁の務め」として、姑さんの世話を長年していらっしゃるとのこと。

聞くと、その姑さんは現在100歳とのこと。
認知症と身体不自由で介護度5。時々デイサービスを利用しつつも、ほとんどは自宅でAさんが介護されているそうだ。

先に亡くなった舅さんの介護も、ずっとAさんがやっていて、舅さんの分も含めると、今現在までトータルで15年以上、義理の両親を在宅介護されている。(ちなみに、Aさんが外出したり会に参加されるときは、ご主人が家で看ているらしい。)

ここ数年は、姑さんの認知症がかなり進み、家族の顔を見ても誰か分からなくなった上に、会話もままならない。一緒に居ても、お姑さんとは意思疎通が不可能な状態とのこと。
そんな姑さんは、以前から徘徊癖があり、ちょっと目を離すと家を飛び出してしまうそうだ。今は足が悪くなり車椅子になったけど、それでも今度は這って外に出ようとされて、油断をするとベッドから落ちたり、隙を見て外に這い出て泥だらけになったりするので、家族もおちおち寝ていられないのとこと。
今は、Aさんが姑さんの部屋に布団を敷き、夜は一緒に寝ているそうだ。夜中に何度もトイレに起きて、自力で行こうとする姑さんの介助のため、Aさんも、その度に起きて姑さんのトイレ介助をするのだと言う。

そんな話を聞かされて、私は思わず「それは大変ですね!」と声をあげた。

うちの義母も高齢だけど、認知症はなく、しっかりしている。自立して生活が出来ているので、大体のことは義母本人に任せている。

だけど、Aさんの場合は、義親の世話で気が抜けない状況が15年も続いているのだ。
結果、無理がたたって腰を痛め、睡眠不足で体も不調。体調がなかなか良くならず辛いとのこと。相方のご主人も、やはり親の世話で腰を痛めていて、ご夫婦で介護疲れに陥っているそうである。

それなら、介護施設に入所してもらうという手を使うべきじゃないか・・・と思うのだけど、Aさんのこの話しぶりだと、Aさん自身もご家族も「家族がその家の年寄りの世話をしなくてはいけない」という昔からの思考に捕らわれているのを感じる。一種の義務感と責任感から「このまま親(姑さん)を家で看取るのが、私達子供の務めだ」と気負っている雰囲気を感じた。
もしかしたら生理的に「介護を外部にお任せする」ことに抵抗を感じてしまうのかも・・・。

Aさん曰く、「私たちの世代(アランウド70)は、親の介護をしなくてはいけない最後の世代であり、その一方で、子や孫からは介護されない最初の世代・・・と言われているのよ。」とのこと。

なるほど、そうかもしれない。

私たちの世代(50代)は、介護保険を利用して「親の介護」を社会全体でみてもらおうという価値観に少しずつシフトしているけど、今の70歳前後の人たち&その親世代(90代から100歳)は、昔のままの価値観で「子が親の面倒をみるのが当たり前」という感覚で生きている。

だから、デイサービスやショートステイを使って介護を家族以外の人に頼むことや、外部の人が介護を理由に家庭内に立ち入ってくることを「恥」だと感じてしまう。
ましてや親が「そんなところに行きたくない」とダダをこねて抵抗し始めたら、一気に罪悪感にかられて心が辛くなってしまうだろう。
その上、「介護は女がするもの」という刷り込みも強いから、結局はAさんのような「嫁」という立場の人たちに、負担と苦労が一斉に覆い被さっていく・・・。つまり自力でなんとかする以外、どうしようもないという状況で、そこで思考も行動も停止してしまうのだ。

これでは逃げ場が全く無いから、本当に大変だ。
年寄りの世話に自分の人生を全て捧げて、そこに自分の骨を埋める覚悟で取り組まなくてはいけない。

しかも、今の日本は長寿大国で、90歳になっても100歳を越えても、認知症になっても、老化で身体機能がかなり低下しても、生命力の強いお年寄りはしっかり生き続けていく。だからゴールが全く見えてこない。それも怖いことだ。

私の他の知人で、やはり100歳を越えた母親を20年以上にわたって自宅で介護しているご夫婦(70代)がいるけど、介護が始まってからの20数年間、夫婦で旅行に行くことも外食することも出来ずに、ずっと家で過ごしてきたと聞く。
たまには息抜きに夫婦で旅行に行きたいと思い、母親に「ショートステイで過ごして欲しい」とお願いしても、年老いた母親は「ワシは家がいい!どこにも行きたくない!」と頑として聞かないので、結局はご夫婦が折れて老母の世話に戻るのだそうな・・・。

また、ある知人(男性)ももうすぐ70歳になられる方だけど、やっぱり認知症が進んだ90代の実母の世話に振り回されていて、奥さんと共にかなりご苦労されているとのこと。
もともと気難しい気質のお母さんだったようで、認知症が進み、ますます手こずっているのだとか。
もう70歳近いこの男性のことを、老母はいつまでも子ども扱いし、デイサービスやショートステイを嫌がって毎回大暴れして家族を困らせ、肺炎を起こして入院したときは病室でかなり暴れて周囲に多大な迷惑をかけてしまったのだとか。「もう大変なんだ・・・」と仰っていた。

しかし、この男性も、「私たちは、(子は)親の世話をするものだと強く刷り込まれてきた世代だし、親もそれが当然だと思い込んでいるから、これを崩すことはできない。だから、自分たちが親に合わせて頑張るしかないんだよ」と話していた。

老親に振り回される毎日。
自分たちもどんどん年老いていく。
自由がない。

この切羽詰まった状況を「仕方が無いこと」と飲み込み、前向きに受け止めて淡々と老親の世話に取り組んでいる人々を見ていると、今の日本の超高齢社会を支えているのは、「親孝行は美徳」と躾けられてきたAさんのような世代の人たちなんだ・・・と切に思う。

いろいろ話をたあと、Aさんは、私に、

「気がついたら、私は今年で70歳よ。まさか自分がこんなに年を取ってしまうなんて、自分のことなのにビックリしているの。
仕事を退職をした後は、もっと自由を謳歌して人生を楽しみたかったのに、結局は親の介護で私の人生の一部分が済んでしまったわ。
そして今は、長年の介護生活で腰を痛めて、身体の老いを感じている。
婆ちゃん(姑さん)はまだピンピンしていて世話がまだ今も続いているけど、私ももう年寄りよ。
私の方が先に逝ってしまうかもしれない。こんな風に年を取るなんて、若い頃は思いも寄らなかったわ。
そう考えると、私の15年間(舅姑の介護に明け暮れた期間)は何だったんだろう・・・と悲しく思うの。」

と、ぽつりぽつりと語った。そして、最後に、

「Emikoさんはまだ若いんだから、やりたいことをやって、人生をいっぱい楽しんでね。
私はもう年を取り過ぎてしまって、身体もガタガタで痛いとこだらけで健康じゃないし、今更やりたいことなんて、したくてももうできないの。
若いうちしか自由に動けないの。だから、後悔しないように、今のうちにやりたいことをどんどんやってね。」

と、私の目をしっかり見て言った。

私は胸がキューと締め付けられる気がした。

世帯の数だけ、いろいろな家族の形があるけど、介護される方も、介護する方も、ただ摩耗し疲労していくだけの関係って、本当に家族の絆なんだろうか・・・。

「絆」という言葉によって、自分の若さと時間とエネルギーを搾取されて消耗し、最後に「老いた身体」と「わずかばかりの時間」だけが残されていくのって、本当に幸せなのだろうか・・・。

看取られる親たちは、それで幸せかもしれない。大好きな子どもに寄り添ってもらえて、住み慣れた家で、心は満たされているかもしれない。

でも、世話をしてあげる側の子世代の人たちのことを思うと、すごく切なく感じる。

しかもAさんの場合、ずっと義両親との関係で苦労されてきた。新婚時代からずっと自分に冷たい仕打ちをしてきた義親を、15年にも渡って世話をし続けてきたのだ。これが「嫁」という立場の者が背負う役目なんだ・・・と信じて。でも、結局は報われるどころか、後悔と自分の老いしか残らなかった・・・という。なんと哀しい事か。

Aさんの話を聞きながら、いろいろな思いが心をよぎった。

「親の介護をする最後の世代であり、子や孫から介護されない最初の世代。」

古い価値観とこれからの新しい価値観の境目に当たる、最後の砦のような世代。悲しいけど、私には何だか「人柱」のように感じられた。


よろしければサポートお願いします!いただいたサポートは旅の資金にさせていただきます✨