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広島から臨む未来、広島から顧みる歴史

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広島を基点に考える歴史と未来。 いかにして広島を寛容と対話の地域にしていけるか、などと大それたことを、余所者が考えています。広島にはその可能性が満ち満ちている、と考えていますが、… もっと読む
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記事一覧

続・広島から顧みる歴史、広島から臨む未来(5)

地方自治の推移1前回郡区町村編制法のところまで見たが、そこからは自由民権運動が急速に活発化する。その点で、自由民権運動とは、近代化に伴い中央集権によって国家を動かしてゆこうという流れに対して、地方ごとの自治を重視して民権を強化しようという、ある意味で地方分権運動であったとも言えるのかもしれない。 自由民権運動と小田県 自由民権運動の始まりは、明治7年1月の板垣退助、後藤象二郎、小室信夫による『民撰議院設立建白書』を嚆矢とするのではないかと考えられるが、それは、小田県の統治

続・広島から顧みる歴史、広島から臨む未来 (4)

備後福山2さて、前回日清戦争のあたりで、大坂の陣の話を展開させながら、新政府が大阪にまでようやく進出したのでは、という推測まで進んだ。そうなると、日清戦争というのは、現状、清を相手に朝鮮半島を主戦場にして戦われたことになっているが、もしかしたら新政府の東方進出と同期して行われていた可能性があるのかもしれない。それが憲法制定や国会開設と重なっていることから、東方進出の錦の御旗として、憲法や国会を掲げて、まだ新政府を完全に信服していたわけではない地域に少しずつ入り込んでいったので

続・広島から顧みる歴史、広島から臨む未来(3)

戸籍制度と現代的アイデンティフィケーション今回はVisionary-Essayとして、自己証明のあり方について考えてみたい。 戸籍制度はなぜ導入されたか 戸籍制度の導入について少しみたが、実際のところ、なぜ戸籍制度が導入されたのか、そしてそれはいつだったのか、ということは詳しく精査しないとわからないのではないかと感じている。基本的な考えとしては、明治新政府が税を貨幣で徴収するための下準備として、地租改正に先立ってこれを行なった事になっているが、地租改正に戸籍が必須であると

続・広島から顧みる歴史、広島から臨む未来(2)

備後福山1備後地方の中心都市、福山市。駅を降りてすぐに聳える10万石には似つかわしくないほどの立派な天守を構えた福山城。草戸千軒という中世都市の流れを汲み(?)、南には瀬戸内随一の港で、一時期は室町幕府がその居を構えた鞆へとつながるなど、歴史的な要素には事欠かない街ではあるが、見てみると様々な違和感が去来する。結局その違和感のためか、あまり街を見て回ろうという気持ちにもならず、城とその隣の博物館だけを見て終わりにしてしまったので、それで一体何がわかるのか、と言われたら、その通

続・広島から顧みる歴史、広島から臨む未来(1)

5月、6月に続き再度広島を訪問してきた。大きく目指す流れは、寛容と対話の地・広島をいかに構想しうるかということであるが、広島といっても広島市というのが広島県の全てを代表しうるわけではないということはすでに述べた。そこで、今回は、広島を舞台としながらも、原爆に代表されるような広島市を中心とした固定的イメージに囚われることなく、いかに多様な広島イメージの相互尊重と交流を図っていけるのか、ということを考えてみるために再度の訪問をした。この訪問を通じて感じたこと、考えたことをまとめる

広島から臨む未来、広島から顧みる歴史(32)

明治維新における吉田 ー 吉田松陰を軸に吉田藩について見てきたが、吉田というのは明治維新以降姓としても頻出するようになる。幕末期において目立つのが、長州の吉田松陰ということになる。率直に言って、その実在は怪しいのではないかと感じるが、とにかく例によってWikipediaから引用してその足跡を追うところから始めたい。いつものことだが、Wikipedia全体もそうだが、とりわけ明治維新時の記述は安定的だとは言えないので、その引用内容自体おかしな情報が含まれているかもしれないことは

広島から臨む未来、広島から顧みる歴史(31)

ロエスレルの商法草案明治十四(1881)年四月、『会社条例』草案が脱稿、同月、太政官が商法典編纂を決し、太政官法制部主管山田顕義は、ドイツ人ヘルマン・レースラーに商法草案の起草を委嘱する。 明治十五(1882)年五月、前年に設置された「太政官ニ属シ、内閣ノ命ニ依リ、法律規則ノ草案審査ニ参預」する参事院に商法編纂局が設置され、九月にレースラー草案中、すでに完成していた総則および会社の部分に修正を加えた百六十ヶ条からなる草案を作成するが、不採用となる。 明治十七(1884)年一月

広島から臨む未来、広島から顧みる歴史(30)

版籍奉還と吉田藩さて、このシリーズの初めのあたりで、『棚守房顕覚書』の中身を紹介し、その中で毛利氏と吉田との関わりについて見てきたが、その話の延長線上に、毛利氏の長州藩が主体となった明治維新というものを位置付けられるのではないだろうか。そこで、主語がなんとも言えないので少しわかりにくいが、吉田をどのように用いて明治維新というものを進めてきたのかを考えて見たい。 広島藩の動き まず、吉田というのが、幕末に広島藩支藩の吉田藩の入封によって名前が浮かび上がるということはすでに述

広島から臨む未来、広島から顧みる歴史(29)

明治十四年『会社条例』草案明治期の法律について見ているが、この時期の話は、日本の歴史のみならず、世界中の近代化への歩みの基礎を定めている時期であったということで、認識の整理が世界中に波及し、情報が錯綜する、ということがリアルタイムで起きている。だから、今見ている情報が確かなもの、固定的なものなのか、ということもなかなか分かりづらく、そして調べるに従って圧力らしきものを感じることも、そして情報が変わったりするように感じることも多々ある。その意味で、今書いている情報も、現段階の整

広島から臨む未来、広島から顧みる歴史(28)

純友がいかに住友となったか前回藤原純友の話をずいぶん膨らませて書いたが、それを住友に繋げようとするのはさらにアクロバティックな知恵の絞り方が必要となる。引き続きNonFictional-Fictionでお楽しみいただけたら幸いです。 ケンペルの『日本誌』 住友は別子銅山から始まっているというのはすでに書いたとおりだが、その別子銅山の開坑は元禄四(1691)年とされる。その年は、オランダ商館のエンゲルベルト・ケンペルが江戸に行き、将軍綱吉と会ったとされている。ケンペルの『日

広島から臨む未来、広島から顧みる歴史(27)

明治十四年の政変明治十四(1881)年四月、『会社条例』草案が脱稿、同月、太政官が商法典編纂を決し、太政官法制部主管山田顕義は、ドイツ人ヘルマン・レースラーに商法草案の起草を委嘱する。 会社法についての続きだが、明治十年までの『会社条例』草案に関わる動きまで見てきた。その後、明治十年には西南戦争が、そして明治十一年には紀尾井坂の変があり、西郷、大久保という薩摩の両巨頭が相次いで世を去った。 地租改正に伴う混乱 個人的な感覚では、この時期には、まず地租改正に伴う全国的な混

広島から臨む未来、広島から顧みる歴史(26)

藤原純友過去の話は吉備国まで行ってしまって、少し範囲が広がり過ぎで戻れるかどうか不安になってきた一方で、未来について書くべき方でも、すっかり近代史の密林にはまり込んでしまったので、方向感を合わせながらなんとか収束を探らないといけなくなってきた。 そこで、前回たままた藤原純友の話が出てきたので、そこに繋げることで距離を縮めてみたい。前回の話では、住友家というのがもしかしたら藤原純友の文脈を引き継いでいるのでは、という趣旨で結構な冒険をしてしまったが、それを歴史的な面から少し補強

広島から臨む未来、広島から顧みる歴史(25)

明治八年会社条例草案引き続き『日本会社立法の歴史的展開』についてみてみたい。第二章の「近代的会社法の出発」の要約と補足をしてゆきたい。 会社法成立に至るまで 前回の明治維新以降会社法成立以前の株式会社に関わる動きに続くこの時期には、官有物払い下げ事件などもあったので、社会の動きとの関わりが欠かせないと思うのだが、残念ながら、本書では、法律の形式論的なものに終始していて、どうにもその背景がわかりにくい。そのあたり、わかる範囲で補足してゆきながらまとめてゆきたい。 わが国最初

広島から臨む未来、広島から顧みる歴史(24)

備後吉備津神社前回、『延喜式』で備後国一宮とされていると考えられている備後の素盞嗚神社について見たが、その『延喜式』には名前がないものの、一宮を称している備後の吉備津神社について見てみたい。 地元で「一宮さん(いっきゅうさん)」と通称されている、という部分で、少なからぬ揶揄のようなものを感じるのは私だけであろうか。つまり、地元ではやはり素盞嗚神社が一宮であり、こちらの吉備津神社はいっきゅうさんに過ぎない、ということなのだろうと私は受け止める。それは、隣の吉備色があまりに強い