見出し画像

海をみながら| 瞑想のこと 書けるだけ① Observing ocean| As mush as I could write about meditation①

(2023年12月)

つまるところ日々私たちがしていることは自身の欲と向き合うことだと、ふと冬海沿いの道を運転しながら思った。瞑想センター長期滞在が終わり日常に戻りつつある日のこと。

環境、人、全てに恵まれたことに、その瞑想センターでは何も求める必要のないとても高い幸福感を感じていた。それは本当の意味で心に平穏を育ませてくれるものだった。その状態から、物や情報であふれかえ、渇望と嫌悪をかきたてられ、右往左往に選択を迫られる世界に再び舞い戻ってきた。

何をしたい?何を食べたい?センターから外界に戻ると毎日がその問いの繰り返し。それらに回答していかなければ、俗世の人生は何も進まない。はじめは躊躇していても、徐々に受け入れて積極的な態度となっていく。「今日はラーメンが食べたい」とか(長らく食べてなかった)。そしてあっという間に、渇望と欲が育まれる。それらは概ね苦しみを付与すると解っていながらも。

人は外からの物質、情報、娯楽あるいは人で渇望を満たし、時に酒やカフェインで感覚を麻痺させ嫌悪を避ける。そのようして何とか自身の抱える問題を見えにくし、人生をやり過ごす。人は反発するかもしれない。「わたしが家族やパートナーなどの他者・対象と関わりを持つのはいるのは気を紛らわすためではない。愛しているからだ」と。

ブッダの教えによると本当に愛することができるのは自身しかいないということだ。要は自分のためにその対象を愛しているのだと。しかし、愛するという高尚そうな行為ですら、原動力になっているものの多くが渇望と嫌悪だとわざわざ気づいているケースは少ないのかもしれない。おそらく大部分は気さえつかずに、欲求・嫌悪につられ無意識的に行動している。そのように無意識的にしてしまう行為を、観察し気づきを入れ意識的にその行為をしないようにするのが瞑想の修練とも言える。

話は戻り、昼下がりに海沿いを走った。景色のよいその周囲をぐるっと一周した。気持ちの良い場所であるにもかかわらず、うっすらとネガティビティがでてくる。それはどんな種類のものだったか?その思考をたどれるか分からないけど次のエントリーで書いてみることにする。

#ヴィパッサナー #瞑想 #渇望   #vipassana #meditation #craving


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?