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悪い感情なんて一つもない。全て「愛しい私」の一部。

喜怒哀楽を感じてあげていますか?
コントロールして抑えていませんか?
自分の全てにオッケーしてあげられますか?

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見たくない、感じたくない、認めたくない、許したくなくてフタをしてる感情って、多かれ少なかれ誰にでもあると思ってます。

私は「哀しい」感情に長いことフタをしてきました。哀しくない、泣かない、平気、私は大人、私は強い、私は今幸せ、私かっこいい、哀しいことなんて認めない、哀しむ弱い私を許さない。

けどある時期から「哀しい」が溢れて止まらなくなりました。泣くことを我慢できなくなり、その涙が次の出来事を運んでくるように、次々「哀しい」が起こり続けました。
「理不尽だ!」って感じました。毎朝まず感じるのが「哀しい」で辛く苦しい、なぜ私ばかりこんな哀しいめに合うのだと思いました(自己憐憫の沼)。哀しみを感じさせる全てを恨みました(怨念の塊)。みんな同じだけ哀しめ!とさえ思いました(子供の仕返し)。
けど長い哀しみの期間で琵琶湖いっぱい分くらい泣いた(大げさにもほどがある)ある日、超スッキリしている自分がいました。

あれ私泣きたかったんじゃない?
やだ、だからみんな、泣かせてくれてた?

琵琶湖のおかげで(関係ない)やっとそれに気づくことができました。

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その「泣きたい」を作った根本は「幸せへの諦め」だったと思います。
目の前のタスクのために日々を過ごし、「そこはかとなく平和」であり、安全である代わりに希望もない、与えられたまま流れる、そんな現実を作っていました。
人生の舵取りを「誰か」「何か」に預けたのです。
不幸じゃない、けど幸せでもない、憧れの生き方や叶わなそうな夢はあるけど変化は怖いから現状維持がいい。危なくないだけでありがたい、と思わなきゃいけない。

「生きる喜び」を諦めて「安全である事」を選んでいた私は、そこそこ幸せである自分の状況を壊さないように「ネガティブを感じないこと」へとエネルギーの全てを使っていました。自分のために人生を生きていない事への「哀しみ」をはじめとするネガティブを、奥深くに隠したのです。
でもどこかで本当は「自由」に生きたいという望みに気づいていた。だからそれに気づかせてくれる一見ネガティブな出来事が起こり始めたのだと思います。

「哀しい」を感じさせてもらいスッキリして調子づいた私は、全ての感情を受け容れてみることにしました。怒り、悔しさ、嫉妬、苦しさ、恥、罪悪感、孤独、恐れなど、今までテレビを見たりお酒を飲んだり仕事をしたり人と会ったり本を読んだりして目を背けていたものと、一人きりで向き合ってみたのです。スッキリできるであろう、見返りを期待しながらw

期待通り、向き合って苦しむたびに腑に落ちてスッキリしていきました。それは元々自分が抱えていた概念だったんだなあと。

怒っちゃいけない、妬んじゃいけない、泣いちゃいけない、わがままはいけない、怖がっちゃいけない、強くなきゃいけない、従わなきゃいけない、ブレちゃいけない。そのたび我慢していた、本当は表現されたがって溜まっていた、何かのせいにして表現せずに済ませてきた感情たち。

それを丁寧に感じていくうちに、今まで許したふりして許せていなかった、怒ったり恨んだり憎んだりした(ことにすら気付いていなかった)出来事やあの人やあの環境を、許せるようになっていることに気が付きました。「外側に対して許せなかった」=「自分が自分に許していなかった」事なのだと。

そうして感じる力を取り戻すうちに、気づけば毎朝の「哀しみ」は「ちょっとした希望」に少しずつ変わっていきました。

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ネガティブは、敵ではない。
「ありのままの自分」に戻ることを阻害している何かに気づかせてくれるための大事なサインです。

だとしたらネガティブな概念こそが、今より更に幸せに生きるきっかけを与えてくれる「愛しい私」なのだと、そう思うのです。

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