次に雨が降ったら

「濡れるのきらい?」

 そう聞かれたのは、軒のないラーメン屋の前で、席が空くのを待っているときだ。彼は傘を差しているようで、私に言わせたらちっとも差していない。傘の中棒を無造作に右肩にかけているだけで、もう片方の肩には傘をよけた雨粒が容赦なく落ちている。

 私は、できるだけ濡れないように傘をまっすぐに持ち、バッグを体の前で抱えるようにして、心なしか背中を丸めて小さくなっていた。

「うんまあ、濡れたくはないよ」

 私は誰もが、雨に濡れたくないものだと思っていた。あなたは違うの? 

「俺さ、別に濡れるの嫌いじゃないんだよね」

 傘をしっかり持たずに濡れている彼を見ても、「濡れたくない」よりも面倒くささや無頓着さが勝っているのだと思っていた。でもそれは勘違いだったみたい。

「濡れたら気持ち悪くない?」

「うーん、別に」

 私は考えてみた。今濡れた場所は気持ち悪いだろうか。ちょっと濡れたくらいでは、まったく気にならない。確かに雨に濡れるその時は、実はそれほど気持ち悪くない。

 店に入って冷えたり、職場に付いて服が肌に張り付いたり、自宅に帰って着替えなきゃいけなくなったり、そんないろいろを想像して濡れるのが嫌いになっているだけなのだろうか。

 子どもの頃は、雨の日にも楽しく遊んでいたような気がする。水たまりにバシャバシャと入って、母に怒られていたっけ。大人は後のことを考えるから、濡れるのを嫌がるのだ。

「じゃあ、雨の日は嫌いじゃない?」

「雨は好きだよ。いつもと街が違って見える」

 私は濡れないように歩くのに精いっぱいで、街並みなんて見ていなかったと思う。

 私は周囲を見渡した。人はみな、明るくはない表情で歩いている。空はどんよりとしているけど、落ちてくる雨粒はたくさんの線になって、キラキラと輝いていた。暗い色の背景と、明るい色の背景で雨粒の見え方が違う。特にアスファルトは、ギラギラと感じるほどに光っていた。

 彼は差していた透明傘を畳んで、私の傘に入ってきた。折り畳み傘だからすこし小さくて、彼が入ってきたのと反対側、私の左肩が傘から出てしまった。まだ私の肌は雨を感じないけれど、袖は少しずつ雨に濡れているはず。だけどもう、そんなに気にする必要はないかと思っていた。

「傘はね、透明じゃない方がいい。こうすると、街の見え方が変わるんだよ」

 私が差していたのはネイビーの折り畳み傘だった。

 彼は、私が傘を持つ手を上から握って、傘の角度を変えた。私たちの視界はすっかり傘に覆われて、数メートル先を歩く人の足元しか見えない。

「これと」

 そう言うと、傘を傾けて視界を広くする。今度は遠くの道まで見えるようになった。

「これと」

 また傘を上にあげた。今度は、いろいろな店の看板も見えるようになった。

「これ」彼は嬉しそうに目を細めて、私の顔を見た。「みんな街の見え方が違う。そうやっていろいろ変えながら歩くのが好きなんだ」

 ほどなく待っていた店の席が空いた。6月にしては冷えすぎた店内で私の左肩も冷えてしまったけれど、湯気の立つラーメンで身体は温まった。

 私たちは店を出ると、2人でネイビーの折り畳み傘に入り、彼が傘を持って、角度を変えながら駅まで歩いた。

 視野を広くすると、街の喧騒がよくわかって、人の波や傘の色、店の看板の濡れたツヤが面白い。

 半分くらいにすると、人の顔が見えなくなる。商店街を歩くと、店の足元にこんなにいろいろなものが置いてあるのだと発見する。ビールのケースとか、植木とか、道路工事に使うコーンとか。

 近くの人の足元しか見えないくらいに傘を傾けると、街は遠ざかって、街に私たち2人しかいないみたいに思えた。

 私と彼は、視界の狭い中ですこしだけ目を合わせた。

 駅までの道のりはあっという間だった。今日、彼とはここでお別れ。

「こんなこと、人に話したの初めてだよ」

「なんのこと?」

「傘のこと」

 彼はそういって「またね」と右手をあげた。私も反射的につられて手を振った。

「うん。またね」

 彼は私に背を向けて歩き出し、一度だけ振り返ってもう一度右手を上げた。私はそのしぐさで、ずっと彼を見ていたことに気が付いた。

 どうして私に話したの? と聞くのは、次の雨の日に。

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