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夢中になるということ

夢中になるものはありますか?

私は30年くらい香道に夢中です。毎回、毎月新しいことに出会えるのが楽しくてなりません。よく考えると30年毎月新しい学びを感じる、というのはなかなかあるものではないのではと思います。香道では組香といういくつかの種類(匂いが少し違う)香木を用意し、テーマに合わせて打ちまぜてたくことでそのテーマをよりよく表現する遊びがあります。組香に参加してお香を聞いている時間、私はいつもの母であり、妻であり、社会人である私ではなく、一人の香人としてお香を楽しんでいます。

夢中になった理由

ほんの子どものころ、私はお香にどハマりしたのですが、それはなぜだろうかと考えてみました。当時は「楽しいから」と言って両親を説き伏せたことを覚えているのですが、今思うと小学生の私はお香を聞く席では役割を担当しなくてもよかったからではないかと思いました。つまり、「小学生らしく」「女子児童らしく」ある必要がなく、香道教室で行われた組香の中の物語に全身全霊で没頭しても誰にも何も言われない。そこには「小学生」「子ども」「女の子」といった自分につきまとういろいろな制約を外してよかったのです。出来のよい兄弟やいとこがいたのであまり何も言われた覚えはありませんが、期待されていない子どもにも、それなりに役割を求められるものです。お香の時間はそういった役割をすべて外して組香の内側を探検できる時間であり、そのテーマに合わせた場面の自分に変身することができました。こんなに自由でいいの?と小学生の私は驚き、次第に夢中になりました。夢中という言葉はそのものに心を奪われほかのことを考えない状態になること、という意味がありますが、お香に夢中になった結果、私は何かを得たのでしょうか。

命を懸けて和歌を詠んだ人


ちなみに夢中になるものについての組香もいくつかあります。その一つは「時雨香」というものです。私の所属している会派では必ず毎年11月になるとこの香組を行います。毎年同じ香組でも毎年違うように感じるから不思議です。香木の種類を変えているからなのか、それとも気温や湿度や私の気持ちが違うからなのでしょうか。
さて、そんな「時雨香」を紹介します。時雨香は源頼実さんの和歌、
「木の葉散る宿は聞きわくことぞなき時雨する夜も時雨せぬ夜も」
という歌をもとにした組香です。風が吹くたびに屋根の上に木の葉が散る音が聞こえる。その音が雨のようで時雨が降る夜も、時雨が降らない夜もその音の違いを聞き分けることができない。という情景を詠んでいます。組香ではこの「時雨する夜」と「時雨せぬ夜」を当てることになります。ふたつとも当たったら「村時雨」ということになります。村時雨というのは、晩秋から初冬にかけてひとしきり降っては止む雨のことです。逆に当たらなかったら「寒空」。
この歌には逸話があります。『無名抄』という、鴨長明が鎌倉時代初期に記した歌論書に掲載されています。この和歌を作った源頼実さんはとても風流な人でした。和歌に志を持っていて、「5年のうちに命をささげても惜しくないから、どうか私に秀歌を詠ませてほしい」と住吉の神様(和歌の神様と言われています)に祈りました。そのあと5年たって、頼実さんは命に関わる病気になりました。家の者が加持祈祷をしていたら家の女に住吉の神様が憑いていうことには「かねて祈ったことを忘れたのか。木の葉散る宿の秀歌を詠ませしは汝が信心いたしたことである」その後しばらくして頼実さんは若くして命を落としました。という逸話です。
和歌というものはもともと、字に書いたものを目でみる、というものではありません。声に出して歌うものでした。この和歌が秀歌なのは、難しい言葉をひとつもつかっておらず、歌を聞くだけでその時の情景や、経験(秋の夜ふけに、風が葉を落とす音や屋根をたたく音を聞いたことはきっと誰しもあるはずです)、またはその時の自分自身の感情を思い出すことができる、素晴らしい歌です。

熱意の固まりのような平安人

平安時代の説話集、『今昔物語集』には琵琶の名手といわれる蝉丸から失われてしまった名曲「流水」を学ぶため、3年の月日毎晩京の都から逢坂の庵まで通った話を例に出し、夢中になることについて、このように教訓を語っています。「達人というものはこのように夢中になってそのものを求めるものである。近頃の人間はまったくもってその熱意が足りない。なんと嘆かわしいことだろう」と。
京から大阪まで、琵琶の名曲を「今夜こそ弾いてくれるのではないか」と盗み聞きをするために訪ね(こっそり家の周りで隠れている)のはだいぶ問題行動ではないかと思いますし、しかも、美しく風情がある月夜、「こんな日はだれかと詩歌について語りたい」と独り言を言った蝉丸さんに対し、「ぼくがいますよ」と隠れていた家の陰から出てくるところもどれだけ近くにいたのでしょうか。しかし、夢中ではある。
このように夢中であるということは多少の犠牲は厭わない、はた迷惑ということでもあります。けれど、夢中になれることがあるのは、自分を求め自分がいかに幸せだということを感じる時を持つことでもあります。夢中ははた迷惑な部分もありますが、幸せになる方法でもあります。
夢中になるもの、何か持っていますか?

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