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部落史ノート(4) 「賤民史観」とは何か(4)

雑誌『現代の眼』(現代評論社)11月号に掲載されている、沖浦和光と菅孝行の対談「賤民史観樹立への序章」から、彼らがどのように「賤民史」を捉えているかをまとめているが、今回は「賤視観」の背景(要因)となる<穢れ思想>と政治権力(支配者・支配体制)の関係についてみておきたい。


前回、「穢れ意識」が<聖>から<賤>への転換の大きな要因であると沖浦は考えている。それは「穢れ意識」に対する権力者あるいは民衆の受容が(年月を経ながら徐々に)変化したのであり、その背景には政治体制や社会状況の変化がある。さらには仏教や儒教、神道など宗教、思想の影響も大きい。それらは「ケガレ観」として日本社会固有の倫理観として民衆の生活に浸透していったと考えられる。しかし、それだけで江戸時代における穢多・非人に代表される被差別身分の人々を「賤視」し、「排除・排斥」していったであろうか。あるいは、彼らを民衆が自分たちとは「ちがう存在」として距離を置いたであろうか。そこには、「穢れ意識」が具体的な行為として表れていたからと考える。それが弊牛馬処理であり捕亡・行刑であったのではないだろうか。支配体制側にとっては必要な「役目」であり、平人(百姓や町人)にとって必要な仕事であっても、それらを行う(行わされる)被差別民に対する「賤視」は別の意識であったと考える。自らがしたくてもさせてもらえない、あるいは自分たちはしたくない、そのような思いから生じる意識(感情)であったとは考えられないだろうか。

…穢れを浄める仕事を穢れた者にさせてその穢れを吸収させる、という解釈もありますね。
昔の穢れ思想というのは、ケガレが移るという、触穢の思想が非常にすごいんですね。…一番こわがっていたのは、穢れたもものに触れた者にケガレが伝播していくということ。だから中世では、「諸社禁忌」、「触穢問答」、「触穢考」「神祗道服忌令」などの法律をたくさんつくり、徳川時代では「諸社禁忌大成」というのをつくっているんです。これは触穢禁止のための規定です。まさに国家レベルでの禁忌をたくさんつくって触穢を防ごうとしたんですね。
たとえば牛を殺すと30日の穢れ、それに触った人間は20日、またその人間に触れば10日、というぐあいに穢れが伝播していく。
天皇以下全部それに服しているんです。このような思想は、古来からの神道とあとから入ってきた仏教との習合の結果ですね。…このように穢れの思想は、中世、近世と民衆のあいだにしだいに入ってきて、いまでも根深く残っているわけです。

沖浦の説明を受けて、菅は権力構造と差別意識の関係について、次のように考えを述べている。

…権力が強くて、人民の末端まで権力が決めた穢れ意識が徹底するようになると、差別意識は高まるんですね。決して近代になったから差別が減るとか戦後になったら合理的に良くなったというふうにはいかない。国家権力の頂点に、聖と穢をきめる最高存在があり、それを大衆の末端にまでゆきわたらせる構造が残っている限りは、差別のシステムが近代化されて、どんどん強くなっていくだけです。
おそらく古代、中世の大衆にも差別の意識というのはあったと思うんですけれども、中央集権的に決まってないから、天皇が決めても大衆の末端まで伝播しない。

誰が「聖」と「穢」、「貴」と「賤」を決めたのか、つまり「聖」「貴」があるから、その対極として「穢」と「賤」が作られ、その対象も決められたのである。そして、長い歴史の中でこの二極構造の価値観が共同幻想として制度化されていった。沖浦はそのを遊芸人を例に説明している。

民間信仰として<マレビト>、つまり、よそからたまたまやってくる人を客人神として迎える習俗があった。他から来訪する神を敬意をもって迎えねば不吉なことがおこると信じられてきた。それは先祖の霊がのり移っているかもしれないから、したがってこのような漂泊的遊芸民をうけ入れる村人たちの感情には、なんだ薄汚れた浮浪の芸人ではないかという賤視観と、まれびと=客人神ではないかという畏敬の念とが複雑な形で共存していた。それと、もうひとつは、かれら遊芸民のたずさえてくる芸能が、娯楽のない当時ではエンターテイメントとして非常に貴重なものだったわけです。
それからもうひとつは情報の伝播者、オーガイナイザーとしての機能も担っていたわけです。…諸国を渡り歩く<ワタリ>もそうでした。一向一揆のオルグといいますか、反権力の情報流通の担い手は声聞師や陰陽師や説教者のような諸国を渡り歩く人びとだったんです。
陰陽師は古代の律令体制では朝廷の内部にあって、かなり上の地位にいた。…これこれには日が悪いとか、田植はいつせよとか占うのが陰陽師です。ただし律令制の解体とともに、上層部を除いて下層の陰陽師は没落し、散所などに入って雑芸者になっていきます。声聞師も散所にいてやはり遊芸に従事したり寺社の雑業にたずさわったりしていました。かれらはあちこちを歩きまわっていますし、いろいろ村の農民たちの知らないような知識や情報を持っていますから。
だから織豊政権は、一向宗はいうまでもなく、ワタリや職人も完全に統制下におき、陰陽師、声聞師、高野聖など回国の遊芸者を徹底的に取り締まった。
信長によって畿内の高野聖が1383人殺されています。秀吉は陰陽師、声聞師を集めて新田開発にこき使うとか、いろんな形で弾圧している。つまり、そういう形で反権力の文化的オルグとしてのかれらを霧散霧消させてしまったわけです。したがって近世に入ってからの遊芸民は、そういう反権力的な動きが出来なくなって、ほんとうにしがない大道芸人、門付芸人になっていくのですね。

「しがない」とは言い過ぎな気もする。大道芸人にせよ門付芸人にせよ、すばらしい伝統芸であり「祝人」「神人」の系譜をひく者である。この頃までは民衆のおいては<聖>と<穢>もしくは<賤>の両義性をそのまま持っている存在と見ていたと考えられる。

また、マルクス主義者であり共産党員であったからか、「オルグ」などの言葉で表現しているが、確かにスパイ活動に近い、誰かの指示ではないにせよ、自然と諸国の情報を収集していたであろうことは推測できる。彼らの情報を利用しようとした領主や武将はいたであろう。

政治体制や社会体制の変動によって、彼らの存在もまた変容していったことも想像できる。特に民衆の彼らに向けられた意識が大きく変化していったことで、<聖>と<賤>の境界が大きく変わったと考えられる。

沖浦は「歌舞伎」「能」を例に<賤民芸能>を系譜に持ちながら<日本の伝統芸能>になっていったかを明らかにする。

歌舞伎の場合でも最下層のドサまわりは諸国巡業ですね。この巡業団は賤民出身が多かった。坂草にいたわけですね、歌舞伎の大一座は。天保の改革で浅草猿若町におしこめられた。団十郎はじめ名門の役者もみなここにいた。すぐ横に穢多弾左衛門の屋敷があった。そして吉原があり、非人部落に隣接していた。それをみただけでも歌舞伎がどうみられていたかわかりますよね。
…他の興行にしろ、歌舞伎の興行にしろ、人形浄瑠璃の興行にしろ、江戸中期までは興行権は原則として穢多部落にあった地方が多い。畿内もそうだし、福岡もそうですね。…興行する場合、一割のやぐら銭-興行税-を部落に出していた。幕府も江戸中期までそれを認めていた。大阪道頓堀の芝居小屋は渡辺村が、京都四条河原の芝居は天部村が興行権を持っていた。…江戸中期の宝永五年(1708)の『勝扇子』事件で幕府は穢多部落から興行権を引き抜くんです。
能もはっきりと賤民文化の系譜を引いています。観阿弥・世阿弥は先祖は散楽戸です。…あの日本の演劇を代表する猿楽能が賤民層から出ている。…人形浄瑠璃の始原は中世の傀儡師と説経ですから、それも両方とも賤民です。

日本の伝統芸能が<賤民芸能>の系譜を引くことは歴史学者や文化史の研究者も認めるところだが、歌舞伎にしても能楽にしても、いつ頃から<賤>を抜け出したのか、人々の<賤視>が解消したのだろうか。

沖浦は「紺屋」について、次のように述べている。

紺屋というのは靑屋、つまり、染物屋でこれも広い意味で賤民です。江戸はわりに早く賤民から抜け出たけど、畿内は最後まで穢多と同じです。
穢多弾左衛門が“靑屋”を賤民支配の中に入れてますね。昔から河原での仕事とされてきた人ですね。インドへ行きましても、染物屋はやっぱり賤です。

「賤民から抜け出た」とはどういう意味なのかが気になる。権力(領主・藩・幕府)が決めたのか、民衆が決めたのか、あるいは「芸能」と「賤」「穢」を分離して認めたのか。岡山藩においては「照葉歌舞伎」は「山の者」(非人)が行っていた。武士が見物に行くほどであった。(ただし、武士の見物人はお咎めを受けて、以後は見物の禁止が命じられている)

「関わり」「交わり」の境界線があり、その境界が厳密に守られている場合とそうではない場合があるような気がする。それは「触穢」を基準にしているのか、長い歳月の中で変容したり曖昧になったりしたのであろう。

<芸能>として認めながらも<賤視>する。「見物」はするが、自分たちの「境界内」には入れない。

部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。