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部落改良の背景-明治40年代の現状-

『岡山県史』に次の史料が載っている。

 特種部落改良(岡山県知事談)
関西地方は関東より特種部落の数多く殊に岡山県下には約四万の特種部落民あり。之を県下
人口百廿万に対せば三十人に一人の割合なり。予は特種部落の改善に就て郡市長・警察署長
を会同する毎に注意を与へ,改善に力を用ひ,今や同部落の大部分の風俗も改善せられ,備
中国都窪郡□□村の□□□□,同国後月郡□□村大字□□の如き好成績を挙げ,□□□□には昨年三月自彊改善団を組織し,□□部落にも本年四月提携会を組織し一層其部落の改善を図ることとなり,其他改善・発達せるもの尠なからず。従来犯罪人多かりしも余程減少せり。
美作国久米郡□□村大字□□の□□□と云ふ人は,同族の改善・進歩を図ることに熱心にて,同人は昨年二月内務大臣より其功労を表彰せられ二百円を下附せられ,同国勝田郡□□村大字□□□の□□□□□と云ふ人は,居村の基本財産として千円を寄附し賞勲局より銀杯を下賜せられたり。特種部落には斯くの如き篤志者ありて善導・改善の実を挙げ得べきものなれ,発憤して斯くの如き人の出でんことは切望して止まず。
岡山県下には特種部落四十一ありて,就中効果の現はれしもの五十九部落あり。其改善に就
ては著々好成績を挙ぐるが如し。斯の如く特種部落も改善して風俗も矯正せられ,犯罪者も
減少せば普通部落と異なる事なきに,普通部落の人が之と歯すると厭ふのみならず之を疎外
するが如き甚だ宜しからず。特種部落民とても四民同等の権を有する者なり。然るに旧来の
因習にて疏外し蔑視する傾あるは遺憾なり。特種部落の改善には普通部落の人の之を疎外せ
ざるのみならず,相親しむこと尤も必要にして,万国と交際を開き各国民も同胞として相親
しめる今日,数千年間同一の領土にて同一の政治の下に住みながら,其一部分の人を疎外・
蔑視す謂無き事と思ふ。
県下の小学校にても特種部落の生徒と席を別にし,為に過般も紛擾を生じたることあり。小
学校にても尚如斯傾向あるは甚面白からず。国法の待遇は異ならざるも社会の待遇斯く如く
なれば,彼等の改善・進歩を阻害すること尠少ならず。漸次両者間の城壁を撤去して融和せ
しめざる可からず。云々。
                    

(明治四四年六月二日「山陽新報」雑報)

この岡山県知事は寺田祐之(てらだすけゆき,1851年1月27日(嘉永3年12月26日)~1917年(大正6年)3月14日)である。
彼は,信濃国水内郡飯山の士族であった寺田覚の長男として生まれ,慶応3年,寺田勘兵衛の養子となり家督を相続した。1871年,飯山県文学助教兼学監となり,司法省十二等出仕警視属四等警視に転じた。その後,警察は内務省に移り,兵庫・山梨・香川・広島の各県警部長,新潟県内務部長などを経て1901年(明治34年)4月2日,鳥取県知事に就任する。就任直後には県下を巡回視察し,教育施設の整備や森林の増殖,県営模範林造成などの事業を進め,1906年7月28日に退任すると同時に岡山県知事に転じる。1908年7月20日に退任し宮城県知事に転じる。

寺田は「警部長」「内務部長」として赴任した各県における被差別部落の実態を把握していたことは十分に考えられる。この史料(岡山県知事寺田の談話)の歴史的背景としては,「部落改善運動」「融和運動」がある。

文中の「普通部落の人が之と歯すると厭ふのみならず之を疎外する」について考えてみたい。
まず,「歯する」の意味である。『広辞苑』には「仲間に入る(つきあう)。同列に立つ」とある。
この言葉は,次の史料にもある。

従来番人非人番の者ども,村方に於いてこれを度外に置き,庶民共に歯せざるの悪習これある趣(三重県)
かの穢多・非人の如きは,名称のごとく四民中に歯せしめざる者なり(静岡県)

上記の史料は,明治4年に公布された「解放令」について各府県がその主旨を解説した公文書に見える「(被差別)部落」の位置付けである。上杉聰『明治維新と賤民廃止令』および『静岡県史料』に転載されていた史料である。

上杉氏の解説によれば「『歯す』というのは,歯のように同列に組み込む,平等に並べるという意味」であり,「反対に,1本だけ抜かれた歯はどうなるか,これはもう仲間外れですね。ですから「歯せず」というのは仲間に加えない,排除するという意味」(『これでわかった!部落の歴史』)ということである。

先の一文は,「普通部落」(部落外の民衆)は「之と」(特種部落)とは「歯する」(仲間として付き合っていく)ことを嫌っているだけでなく,「疎外」(よそよそしくして近づけない)している,という文意である。

参考までに,現在はほとんど使われることのない「歯す」であるが,この時代には普通に日常生活でも使われていた証左を,次の一文で示しておく。

明治40年4月,夏目漱石が行った東京美術学校文学会の開会式における講演「文芸の哲学的基礎」の一文である。

諸君は探偵と云うものを見て,歯するに足る人間とは思わんでしょう。探偵だって家へ帰れば妻もあり,子もあり,隣近所の付合は人並にしている。まるで道徳的観念に欠乏した動物ではない。…しかしながら探偵が探偵として職務にかかったら,ただ事実をあげると云うよりほかに彼らの眼中には何もない。…まず彼らの職業の本分を云うと,もっとも下劣な意味において真を探ると申しても差支ないでしょう。それで彼らの職務にかかった有様を見ると一人前の人間じゃありません。道徳もなければ美感もない。荘厳の理想などは固よりない。いかなる,うつくしいものを見ても,いかなる善に対しても,またいかなる崇高な場合に際してもいっこう感ずる事ができない。できれば探偵なんかする気になれるものではありません。探偵ができるのは人間の理想の四分の三が全く欠亡して,残る四分の一のもっとも低度なものがむやみに働くからであります。かかる人間は人間としては無論通用しない。人間でない器械としてなら,ある場合にあっては重宝でしょう。重宝だから,警視庁でもたくさん使って,月給を出して飼っておきます。しかし彼らの職業はもともと器械の代りをするのだから,本人共もそのつもりで,職業をしている内は人間の資格はないものと断念してやらなくては,普通の人間に対して不敬であります。

(夏目漱石「文芸の哲学的基礎」『夏目漱石全集10』ちくま文庫)

夏目漱石の主旨についてここで述べるつもりはない。全文は青空文庫に夏目漱石「文芸の哲学的基礎」として掲載されているので、読んでほしい。

ただ,夏目漱石の言い回しは(当時であるから容認されたのだろうが)相当に差別的であり,今日では許されない言葉や表現でもあるが,この一文から当時は「探偵」という職業が相当に悪く思われていて,世の中の人々もほぼ同感であったことがわかる。職業観が時代によって変化している例証である。その上で,「歯する」,つまり「仲間にする」人間ではないと,「探偵」を見なしている。

言葉とは歳月や時代の流れの中で消えていくものもある。用法や意味が変わるものもある。しかし,「歯す」の言葉は,江戸時代(もっと古い時代からかもしれないが)から、先の上杉氏の著書より引用した明治4年の史料,本史料や夏目漱石が講演において使った明治の終わりまでは,確かにこのような意味として日常においても使われていた。
このことが何を意味するのか。「歯す」「歯せず」が,人もしくは集団,社会の関係性の状態,つまり「排除」「排斥」を意味する言葉として使われていたということである。

時代の流れに応じて、<差別>の概念(価値観・認識)もまた変化(進展)していることを認識して、歴史(部落史・賤民史)を考察しなければならない。
石瀧豊美氏は、部落史・賤民史を人権の視点から<人権拡大の歴史>と定義している。全く同感である。
つまり、この認識をもとに、夏目漱石を「差別者」と断罪することができないように、明治の人々や江戸時代の人々を「差別者」と論じることもできない。<差別>の概念が時代によって変化するように、<差別>を意味する言葉も変化している。

本史料についても、この当時、部落は「特種部落」と見なされ、あえてそれ以外の人々を「普通部落」と呼称して<差別>しており、その理由は風俗が悪く、犯罪者も多く、改善が必要であるからだとしている。さらに、「普通部落」の者が「歯する」「厭ふ」「疎外する」のは「旧来の因習」に原因があるとしている。

これらの歴史的背景ならびに動向に関しては、黒川みどり氏が『被差別部落認識の歴史』『近代部落史』において詳細な考察を行っている。私も別項にて論じているが、岡山においてどうであったかは県史や市史、および先の研究を参考にまとめたいと考えている。

部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。