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部落史ノート(1) 「賤民史観」とは何か(1)

個人的なことだが、今年になって数回に分けて家の片付けと、書斎および書庫の「断捨離」をおこなっている。先週から雑誌の整理に入り、随分と処分した。その中に興味深い1冊があった。
1980(昭和55)年、今から43年前の雑誌『現代の眼』(現代評論社)11月号は「反差別闘争の課題-差別のルーツを追え」と題した特集を組み、部落史・部落問題について興味深い記事を掲載している。1980年は、「部落史の見直し」、従来の部落史の再検討が始まった頃である。
特集の巻頭は「賤民史観樹立への序章」と題した、沖浦和光と菅孝行による対談である。聞き慣れない「賤民史観」であるが、あらためて読み直してみると、黒川みどり氏が『被差別部落認識の歴史』の「岩波現代文庫版あとがき」で述べている、次のことと関連が深いのではないだろうか。

…ひろたまさきが『<日本近代思想大系22>差別の諸相』の「近代日本の差別構造」と題する「解説」で、「差別の「個別史」」から「差別の「全体史」」へと途を開き一連の差別を生みだしている“近代”を俎上に載せた
従来の近代部落史の研究は、変革主体としての民衆に対する信頼を前提にするあまり、民衆の差別意識を不問に付し、権力や社会構造のみを標的としてきた。換言すれば民衆の差別意識はもっぱら権力に躍らされたものとしてとらえられ、そこでは“踊らされる”側の要因や意識は未解明のままであった。しかしながら、民衆の差別意識を巧妙に利用してきた権力の構造と同時に、そうした民衆の側の差別の論理と意識それ自体を明らかにし、同時にそれが日本の社会構造や精神構造といかに結びついているのかを解明していくことこそがいま重要なのではあるまいか。…部落差別のありようは、日本社会の特質を如実に反映したものであり、部落差別を内包してきた日本社会の特質そのものが問われなければならない。

黒川みどり『被差別部落認識の歴史』

つまり、差別を部落差別などの「個別史」として考察するのではなく、包括的・連関的に「全体史」として考察することで、「日本の社会構造や精神構造」を解明することが重要である。そのためには、「民衆の側の差別の論理と意識」を明らかにする必要がある。

この方向性(差別の全体史)からの著作としては、ひろたまさき『差別の視線』『差別からみる日本の歴史』、藤原靖介『部落・差別の歴史』、黒川みどり・藤野豊『差別の日本近現代史』などが挙げられよう。確かに、「個別史」にとらわれると、歴史的背景が偏ってしまう。日本の歴史を通底する根源的な差別構造や差別意識を明確にしなければ、現在及び将来に向けての差別解消に何を課題とすべきかも見えてこないだろう。


対論の中で沖浦は、部落史の(その頃の)通説に対して次のように疑問を投げかける。

第一は、部落問題は、日本の歴史的風土・文化的土壌の原点から、日本社会の歴史的展開の総体の中で、あらゆる角度から論じ深めなければならぬ課題である、…具体的にいうならば、日本の歴史の中で被差別民衆の担ってきた役割は大きいが、とくに産業、技術、流通、文化、芸能、宗教、民俗などの領域でかれらが果たしてきた役割と仕事を無視しては、まっとうに日本の歴史を語ることはできぬということです。
そのような視点から部落問題の本質を照射するためには、被差別民衆の歴史、つまり賤民史における生産と労働と文化の意義、つきつめていえば、創造と栄光の側面をもっと積極的に掘り起こし、それを歴史全体の中に位置づけながら、文化史的な、あるいは思想史的な意味づけを行わなければならない。

沖浦の発言からわかるように、この当時までは「差別・貧困・悲惨」だけの部落史が語られていた。そのような被差別民の生活を強いたのが権力者・支配者であった。だから、責任は国家にある。マルクス主義歴史観からの「近世政治起源説」である。

沖浦は続ける。

これまでの部落問題は、貧困悲惨論、封建的スラム論、日本残酷物語の一コマの中に押し込まれてきた。部落史認識にしても、たとえば弊牛馬処理史観や刑吏部落史観に矮小化されてきた。もちろん、それぞれが部落問題の一つの側面をついていることはたしかです。

日本史の中で賤民と呼ばれてきた人たちの果たしてきた生産的・創造的な役割についての正しい認識が民衆のあいだで普遍化してくることこそ、むしろ真の解放への第一歩が始まったといえるのではないでしょうか。はっきりいえば、賤民史をふまえ、それを基底において、その視点から日本の歴史と社会を逆転的にとらえ返すこと-その点を明らかにせずして、差別からの解放を唱えても、結局は上からの同上・融和・救済の運動に終始するほかはない。
特に近世における幕藩体制の確立期以降の民衆支配と収奪、その手段としての差別政策という視点のみを取り上げて部落史は語られてきた。それゆえ、穢多・非人に代表される賤民のイメージは「貧困と悲惨」で固定化された。

さらに、沖浦は「起源」に対しても、次のように疑問を投げかけている。

第三の問題点ですが、いままで今日の被差別部落の直接的な起源は、幕藩権力による穢多・非人・雑賤民という近世賤民制の創出・固定化にあるといわれてきた。法制史的にみればそういっても誤りではない。しかし、各地方の部落の系譜をたどると、かなりの部落が中世社会にその根を持っている。それが戦国大名のもとでの賤民統制を原型として近世賤民制へと連結している。近世賤民制は、権力の側からすれば律令制いらいの賤民制の最後の段階で、弊牛馬の処理や行刑吏の末端を強制し散田や荒田の開発に動員し環境条件の劣悪な場所に居住を固定したのである。しかし、これはあくまでも賤民制の仕上げの段階であらわれた結末である。

近世賤民制から部落問題をみただけでは、原論・総論なくして、段階論・各論をやっていることになるんではないか。つまり、…賤民制は非常に古くから日本史を通底しているのであって、その最後の段階として近世賤民制があったわけです。だから、そもそも賤民とは何であるのか、日本史における賤民の歴史はどのように変遷していったのか、そういうような基本的な問題をまず明確にすることが基礎になければ、近世からだけ論じてもごく一面的な認識しか出てこない。

この沖浦の疑問・批判は今では当り前のことであるが、40年前であるがゆえに、未だに十分に研究が進んでいない現状を実感する。彼のいう賤民史研究あるいは部落史研究が成果を出しているか、疑問である。確かに膨大な研究であり、共同研究でもしなければ時間的にも労力的にもむずかしいだろう。


対談の中に「賤民史観」という言葉は一言も出てこない。編集者が題名として名付けたのだろう。副題に「賤民中心の民衆社会史を描き出し主体としての民衆を解明していくことが要請されている」とある。これが「賤民史観」の意味ではないだろうか。

この対談を通して、2人が提言しているのは、この副題にあるように、賤民史を日本史の中に位置付けて、賤民の果たしてきた生産・文化・芸能などを明らかにすると同時に、差別の歴史的背景と経緯・変遷を明らかにすることによって、民衆を主体とした日本史の全体像が解明されるということである。

この「賤民史観」を左翼主義の差別思想であると批判しているのが福島県の隠退牧師吉田向学氏であるが、私には独断と偏見からの曲解としか思えない。吉田氏は「被差別部落の人が<みじめであわれできのどくな理由なく差別された人々であった>賤民として差別されてきた」という歴史観を「賤民史観」と解釈しているようだが、この対談を読む限り、そのようなことは2人とも語ってはいない。吉田氏もこの雑誌を読み、この対談から「賤民史観」という言葉を知って使い始めたようだが、どこを読めばそのような解釈に至るのか、さっぱり理解できない。

沖浦も菅も(彼らは「賤民史観」という言葉を使っていないが)「賤民」をそのように解釈していないし、述べてもいない。菅の次の発言が明確に否定している。

…そういう誇るべき存在であるはずの人たちが、何故こういう差別・抑圧の構造の中に押し込められてしまったのか。そういう観点から歴史をもう一回掘り起こしていかなきゃいけない。栄光と創造の歴史として、賤民史を書き直す、ということですね。…賤民とは一体何なのか…字は“賤”と書くわけですけれども、それは創造的な仕事に従事してきた非常に誇り高い栄光の存在であった。それが賤民制度の中に押し込められて長い間辛酸をなめてきた。なぜそうなったのか、賤とは何なのか。それを本質論として究明する必要がある。

異民族で何故わるい、河原乞食や遊行僧でなぜわるい、宗教がちがって何がいけない、食生活や風俗がちがってなぜいけない、というふうに、ちがいをちがいとしてはっきりさせた上で、ちがった者同士がヨコにつながることこそが必要なのじゃないのか。

菅のこの発言が40年前にあったことに驚く。<互いのちがいをちがいとして認め合う>という考えは最近の人権運動のスローガンである。平等論は「同じ」を強調してきたが、本来は「ちがい」こそが平等の基底になければならないと私は思う。これは部落史論においても言えることだろう。自説に同意しない人間を「敵」として攻撃する人間を誰も相手にはしないだろう。


…部落の人人は可哀想だ、気の毒だという同情・融和の気持からなされるだけだったら大きな限界がありますね。なぜ差別を受けてきたのか、それを強制したのは誰か、そのような差別の構造はいかにしてつくられてきたのか、そういった根本を抜きにして、結果と現象から部落問題をみるだけでは、その歴史的な本質はとらえられない。

沖浦のこの発言からもわかるように、「賤民」を差別的にとらえてもいなければ、惨めで気の毒な人々であるとも見てはいない。賤民の姿を明確に歴史の中で再認識しようと考えている。

「賤民中心史観でもって、一度日本の歴史を再構成してみる必要があるんじゃないか」という沖浦の発言に対して、菅は次のように述べている。

…政治史はどうしても権力の歴史になりますから…だから主体としての民衆は全然出てこない。これでは、社会史、文化史は書けないわけで、社会史、文化史を描くということは、民衆的主体性の歴史を描くということですよね。そして、そういうふうに、視座と問題構造を転換するやいなや、農業中心の、柳田国男このみの常民史ではなくて、賤民史としてしか書けないものだということがはっきりする。

彼らのこの発言から編集者は「賤民史観」という言葉を題名にしたと考えられる。つまり、「賤民史観」とは「賤民中心史観」であり、賤民を中心として歴史を描く賤民史であり、それは差別の歴史を明らかにすることである。
「賤民史観」は決して否定される歴史観でも歴史認識でもない。

部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。