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「渋染一揆」再考(18):倹約令(6)

『備前藩 百姓の生活』(荒木祐臣)に、『法例集』よりの引用文とその解釈の記述がある。

文化十二年(1815)八月には、藩当局は、御城下または上方筋(京、大坂)の呉服商が村々に入り込んで贅沢な衣類を行商するのは百姓たちの服装を華美贅沢にする原因であるとして、これらの行商人野の村への立ち入りを禁止するという次のようなお触れを出している。
御城下并上方筋呉服屋村方立入禁止
今年の作方(稲の出来)は何の申分もこれなく是までの趣にては先ず豊作と相聞き候。これによって御百姓ども自然と心弛み候ては豊作の詮もこれなく(折角の豊作のかいもなく)却って難渋す可きは眼前の事にて候。
追って祭礼も近づけば御城下并に上方の呉服屋ども村々へ入り込み高値なる衣類売り歩き候えばおびただしき出費して買い求め申す百姓などこれあるやに相聞き候。先達てお触れもこれあり候えども、とかく心得ちがい致す者たえざる由相聞き候間、村役人・頭百姓ども申し合せ平素たりとも右様の行商人村内へ入り込ませ申すまじく候。勿論これらの者に一夜の宿など致し候者これあり候わばきびしき咎仰付られ候条、組合村々へも洩らさざるよう申し付らる可く候。
以上の藩当局が出した「衣服統制令」のねらうところは、要するに村々の百姓の風俗が派手になりすぎると自然と心が弛緩して本業の農業を疎かにするようになるので、一般百姓は勿論のこと、たとえ村役人や富裕な百姓であっても常に質素倹約を心がけ、服装なども百姓にふさわしいものでなければならぬと戒めているのである。

この一文を読んで脳裏に浮かんだのは、学校の「ブラック校則」である。不要なもの、マンガや雑誌を持ち込んだり、化粧や髪型を気にしたりすれば、学業に実が入らないという説諭は、この「衣服統制令」と同じ論法である。昔の生徒の中には納得する者もいただろうが、現在ではどうだろうか。生徒にはお菓子を持ってくることを禁じながら、職員室で教師は自由にお菓子を食べている。「生徒だから、子どもだから」の論法と同程度の言い訳だろう。

同書には、他にもさまざまな持ち物(生活雑貨用品)の統制令を出したり、ざるふり商人が百姓へ売る商品の制限令、休日制限令、芸能制限令、賭博禁止令などが史料(『法例集』など)より紹介されている。これらを読めば、なるほど江戸時代はまさに百姓にとっての「暗黒の時代」と映るが、果たしてそうであったのか。

同書で荒木氏は、百姓の生活が華美になり質素倹約が徹底しない理由として、ざるふり商人が村々へ身分不相応な商品を売り歩くことにあり、それを制限するためざるふり商人への村々への立ち入りを許可制として商人札を与え、さらに商品を十三品目に制限した(寛文八年:1668)史料(「郡奉行月番帳」)を紹介している。この十三品目は、天和三年(1683)には五品目が追加され、さらに宝永二年(1705)には十三品目追加され、合計で三十一色(品目)まで許可されている。指示された商品は、たとえば「もの縫い針・茶・油・とうしん付木・桶ひしゃくの類・農具の類・はた道具の類」など百姓がその生活を支えていく最低限度の必需品であるが、それ以外の商品を持ち込まなかったとは考えられない。無許可でのざるふり商人は絶えないので、それを取り締まるお触れも度々出されている。

荒木氏が根拠とする『法例集』(『藩法集 岡山藩』)は、藩からの「触書」(禁止・取締・制限・統制)を集めたものであり、藩政において困るから出された命令である。なぜ困るのか。それは藩政を行う上で不都合な実情があるためである。
理由は、大きく「身分統制(身分秩序の維持)」の面、「藩財政(支出の増加、収入の減少)」の面に分けることができる。


西村綏子氏の『江戸時代における衣服規制』(家政学雑誌)に、次の一文がある。

四民に衣服規制を必要とした起因は、慶長20年に公布された武家諸法度第10条に
一、衣裳之品不可混雑事、君臣上下可為格別…
がある。これによると君臣の間には上下の別があるので、不相応な衣裳によって身分の上下が混乱してはならないことが示されている。これは衣服でもって身分秩序を識別しようとするもので、幕政のこの基本方針は寛永2年の武家諸法度第21条の
一、萬事如江戸之法度、於國々所々可遵行之事
により、すべての藩において遵守しなければならないことになった。これがいわゆる幕藩体制の確立であり、衣服規制もこの体制下に置かれたことはいうまでもないことである。

『江戸時代における衣服規制』

西村氏は「江戸時代における衣服規制」に関して、幕府(徳川禁令考)ならびに御觸書、金沢・熊本・鳥取・岡山・徳島・盛岡の各藩(関係藩法集)を基本資料として考察している。「士・百姓・町人」別に公布頻度(回数)や公布率、公布期間、特に倹約令との関係では公布理由や販売品の制限にまで論究している。特に図表にまとめていてわかりやすい。
ここでは、結論部分について引用する。

…衣服規制は、社会情勢の変遷、生活様式の推移に伴い変化する性格をもっている。さらに、当時代の租税が米であったことから、百姓は増産・節約、士は家禄の節約を余儀なくさせられ、倹約は重要な施策であった。幕政中期に近づくと、全国的に各藩ともに財政難を生じ、主として士・百姓に対する倹約令の公布となり、着衣内容がこれに含まれていた…。これと対照的な傾向として、中期以降、産業ならびに経済の発達は生活水準の向上をきたし、ゆとりある生活はとかく奢侈的傾向を生じ、分限を越えた身なりは過差の禁の対象となり、ここに衣服規制が倹約令あるいは奢侈禁止令の性格を有するものとなった。

『江戸時代における衣服規制』

私も、西村氏と同じく、「衣服規制法令は、封建的社会状勢下にあって、身分秩序の維持と確立を図るために、四民の着衣により身分差を明示する目的をもって設けられた制度である」と考えている。すなわち、「江戸時代における衣服規制は、幕藩体制下における身分秩序を衣服差でもって識別しようとするものであった」と考える。

西村氏は、(やや短絡的とも思えるが)「諸藩は苦しい財政難からその打開策に家禄を減ずることを唯一の手段として、士に倹約を奨励し、その一環として公布された衣服規制も多かった」とする。つまり、武士には家禄を減じるので倹約を命じ、その結果として(町人の方が華美な着衣となれば)<衣服による身分差の識別>ができにくくなるので、町人や百姓にはさらなる衣服規制(奢侈禁止)を命じたのではないかと推論する。

あえて極論を言うならば、(生活レベルは別にして)江戸時代の社会は現代とあまり変わらないのではないかという気がしている。現代にも大金持ちが何人もいるし、貧しくて生活に困窮する人々もいる。企業(会社)の中にも地位の差があり給与の差になっている。多くの人々は生活に余裕がないけど、それなりの衣類を持ち、居住も食事もできている。
現代よりもリサイクルを活用したエコ社会であったと考えられる。

では、現代とは何が違うのか。それは「身分制社会」かどうかである。

部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。