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歴史を学び伝える意味

「歴史とは現在と過去の果てしない対話である」
(History is an unending dialog between the present and the past)

E・H・カーの『歴史とは何か』の有名な言葉である。カーの本書を読んだのは高校時代だが、幾度となく読み返してきた。最近新訳で再刊されたが、清水幾太郎の訳と原書に慣れた私には些か物足りない気もする。歴史を学ぶ意義や目的、歴史そのものの意味など、他書も読んできたが、未だに明確な定義は私にはわからない。ただ、新訳の訳者である近藤和彦さんの「歴史学は、過去を手掛かりに、自分たちの置かれた状況を理解する学問だ」という説明には納得する。

〈過去は現在の光に照らされて初めて知覚できるようになり、現在は過去の光に照らされて初めて十分に理解できるようになる〉




藤野豊氏の著書を最初に読んだのは、『米騒動と被差別部落』であったと記憶している。その後、彼の著書はすべて読んでいるが、特に『「いのち」の近代史』を初めとするハンセン病関係の著書は何度読み返したかわからない。付箋とアンダーラインだらけになってしまった。

藤野氏の視点はいつも鋭い。そして史資料の分析と考察は詳細である。丁寧に史資料を読み解き、可能な限り原史料-たとえば当時の新聞や雑誌であっても-にあたって、事実を探求する。そして時代背景を的確に反映させて事実の検証を行う。そこから導き出される歴史観や歴史理論に左右されない、事実の背景をふまえた実証的結論には幾度となく納得させられた。歴史を学ぶ意味を教えられてきた。

藤野氏は、烏滸がましいが、私と同じ研究の方向を歩んでこられたことに親近感と信頼を寄せている。私も出発は「部落問題」であり「部落史」であった。その後、金泰九さんとの出会いから「ハンセン病問題」に関わるようになり、長島愛生園に通い詰めて、現在に至っている。公立中学校の教員は、転勤によって出会う<地域>から学ぶことが多い。保護者だけでなく、その地域に住む人々から歴史を聞き取り、地域の特質を教えられて、地域に根ざした教育ができる。部落史・部落問題についても、赴任先の地域から学び、深く関わることになった。特に、私のライフワークとなった「明六一揆」(解放令反対一揆)も、その当事者であった部落との出会いからである。

わたくしは、部落問題の歴史を研究するなかで、的ヶ浜事件に出会い、それが部落差別に起因するものではなく、ハンセン病患者の隔離政策に起因するものだと知り、ハンセン病患者の隔離の歴史を調べ出した。そして、ハンセン病患者に強制断種や強制堕胎がおこなわれていたことを知り、その根拠となった優生思想について研究せざるをえなくなり、優生思想から「滅び行く民族」と決めつけられたアイヌ民族の「同化」政策に気がついた。そして、優生思想を政策化したナチスとの比較のうえで、日本ファシズム下の生命と健康の国家管理を追い、性病予防策との関連で日本の売買春の歴史に着目した。一方、戦後のハンセン病政策を調べるなかで、アメリカ統治下にあった奄美・沖縄の歴史についても学び、とくに沖縄では、基地売春・観光売春の実態の研究にも手を染めた。また、ハンセン病隔離政策から医療と人権というテーマについても考えさせられ、イタイイタイ病とも直面することになった。

『忘れられた地域史を歩く』

藤野氏の研究の足跡ともいえる『忘れられた地域史を歩く』の「序章 歴史学における地域」で語られた一文である。本書を読んだことで、なぜ藤野氏の一連の著書や論文に共感するのかが理解できた気がする。

…趣味と教養の歴史学、「知的遊戯」としての歴史学は、現実の差別や貧困の解決にはなんらの示唆も与えない。
…1970年代、わたくしが歴史学の勉強を始めた当時は、学界の多くの諸先輩は、歴史から現状を見据えていた。軍事史を研究する者は、現代の戦争や軍備拡張を阻止しようとし、政治史を研究する者は、自民党の長期政権を打倒しようと行動した。差別問題の歴史を研究する者は、どうすれば現実の差別を解消できるか模索し、奔走した。皆、研究者であり、実践者であった。
…差別を受けてきた当事者が、苦渋の思いで過去を語り、貴重な資料を提供してくださる。それに対して、著書の巻末に謝辞を書けば、それでよいのだろうか。聞き取りや資料提供に応じてくれた方は、少しでも差別をなくすためになればとの思いで、協力してくださったはずである。研究者は、謝意を言葉としてだけではなく、現実の差別に取り組む行動として、それが無理ならせめてなにがしかの運動への提言として、示すべきではないか。
…しかし、ハンセン病問題との関わりのなかで、かろうじて国家とのたたかいの場に身を置きつづけることができた。ハンセン病国家賠償訴訟で明らかになった強制隔離・強制労働・強制断種・強制堕胎、そして虐殺、これほどの残虐な行為を「医療」の名のもとにおこない、いまだに反省もしない国家、それとの対決なしに歴史学など成立しえない。いや、少なくともわたくしの歴史学は存在しない。

『忘れられた地域史を歩く』

私は、別に「知的遊戯」の歴史学自体を否定はしない。他の学問においては「知的遊戯」が主流になっている場合もある。机上での作業で完結する学問もある。情報収集も発信も、本とインターネットに終始しながら、自説に従えば部落問題が解決できると豪語する福島県在住のキリスト教の隠退牧師もいる。

近年、専門化した個別の歴史から拡大し連関した総合的な歴史へと移行する動きがある。テーマを探求する歴史学において、個別史では本質が見えにくい。特に、「差別問題」をテーマとした歴史が描かれるようになった。『差別からみる日本の歴史』(ひろたまさき)、『近現代部落史 再編される差別の構造』(黒川みどり・藤野豊)、『被差別部落認識の歴史』(黒川みどり)、『近代部落史』(黒川みどり)『近代日本の「他者」と向き合う』(黒川みどり編)、『差別の日本近現代史』(黒川みどり・藤野豊)など。

…ひろた(まさき)の論(『日本近代思想体系22 差別の諸相』)は、従来の「差別」の歴史が、被差別部落民、女性、アイヌなどそれぞれの「個別史」として描かれ、「「差別」の全体史」の研究へと展開してこなかった問題を指摘した上で、アイヌ、被差別部落民、娼婦、病者と障害者、貧民、坑夫、囚人についての史料を編み、「日本近代社会の差別構造」と題する詳細な解説をつけて、それらの差別の連鎖を視野に入れながら「その全体的な構造と矛盾」を究明することをめざしたものであった。

(黒川みどり・藤野豊『差別の日本近現代史』)

個別の「差別」が他の差別と関連したり、共通性をもっていたりする<差別の連鎖>を、同時代的に歴史背景を考察し、構造的に解明することで、差別を残存させ続けているものを明らかにする。つまり「個別史」から「全体史」への転換である。

近代国家は、その価値観に反する人びとを排除しながら、「国民」をつくり出していった。この「国民」への包摂と排除の構造の解明が本書の第一の課題である。

(同上)

部落問題とハンセン病問題、最近では海洋問題と、転勤に伴って赴任先(地域)が抱える問題と向き合ってきたことで、ひろた氏や藤野氏が指摘する<差別の連鎖>や<差別の構造>への問題意識、特に国家や権力が「国民」を支配する巧妙な手法に気づくことができている。

人はよく「その時代だから仕方がない」と口にするが、果たしてそうだろうか、それで仕方がないのだろうか。手元に『救癩の父 光田健輔の思い出』(桜井方策編)がある。その「序文」に神谷美恵子は次のように書いている。

先生が過去において推進したらい患者への強制隔離政策は患者の一部から強く非難されるようになっていた。それは戦後、らいを治す強力な薬が開発され、多くの患者が「無菌」となり、かなりの人が社会復帰できるようになったからであり、それが戦後の人権思想とからみあって、先生の事業への烈しい反発となってあらわれたのであった。

光田先生に対する右の批判は歴史の流れの中で出るべくして出たのであり、私たちも一生隔離された人びとの悲劇には身近かに接してきた。こういう意味で先生の事業が現在、一部の人たちから単純な美談としてうけとられていないゆえんもわかる。

『救癩の父 光田健輔の思い出』(桜井方策編)

まるで「他人事」であり、光田健輔に対する一方的な賛美でしかない。神谷美恵子は「悲劇」に精神科医として「慰める」だけでよしとしていたのか。「監禁所」に入れられたり、「重監房」に送られたりした患者をどう思っていたのか。それを考えたのも命じたのも光田であることを彼女は知っていたはずである。「悲劇」の一言で終えられるものではない。

しかし何と言っても歴史的人物は、その時代と社会を背景にして眺められなくてはならない。現代において光田先生の考えかたやしごとがどう見えようとも、先生の時代においてあれだけのしごとにあえて一生を賭けたことは、並外れた勇気と愛と根気の要ることであった。たとえそれが自由とのひきかえであったとしても、多くの浮浪患者が困窮のどん底から救われたことは否定すべくもない。この精神の輝きは歴史を超えて伝達されるべき日本の宝物であると信じる。

(同上)

この神谷の私見を否定はしない。光田健輔の功績は大きいと私も思う。ハンセン病患者を救済しようとする崇高な精神や人並み外れた実行力は賞賛に値する。多くの患者も救われたであろう。だが、それでも「絶対隔離」に固執した光田の独善性と頑迷は許すことができない。(光田健輔に関する論考は別に書く)

ここで私が問題にしたいのは、この神谷の「序文」が書かれたのが、光田没後9年が過ぎた1973(昭和48)年であることである。
1953年の「らい予防法」が制定され、その前々年(1951年)には「癩予防法」改正の方向性を決めた国会における「三園長証言」があった。それらの動きを神谷は光田の傍らで見ていたはずだ。知っていたはずだ。彼女は何をしていたのか。光田への「烈しい反発」をどう受けとめていたのか。私はそれを問題にしたい。彼女だけではない。本書で「光田健輔の思い出」を語っている人々はただ黙していたのか。

1958(昭和33)年、愛生園で光田健輔の胸像除幕式があった。本書の中で名和千嘉が、その時に入園者に向けて語った光田の言葉を書いている。

「近頃は何も分からないで社会復帰、社会復帰と猫も杓子もお題目のように言っているが、私はこれに絶対に賛成するわけにはいかない。もし皆さんがどうしても愛生園を出て社会復帰するというのならば、先ず私を倒して私の骸の上を乗りこえて行け!」

(同上)

光田は前年に園長の職を辞している。これは入園者というより後を継いだ高島重孝園長や職員、来賓などに対する強烈な威嚇であったと思う。(後年、入園者がこの胸像を破壊したという話も聞いたことがあるが…)

神谷の「その時代と社会を背景にして眺められなくてはならない」という意見は、一見正論のようではあるが、これは「あの時代だから仕方がない」と同義である。「時代と社会」に従うしかないのだろうか。従うことが正義なのだろうか。

歴史学とは「その時代と社会」を検証し、同じような「時代と社会」にならないように提言し続けていく学問であると私は考える。「時代と社会」に対して、その「目的」と「手段」を問い続け、「目的のために手段が正当化されていないか」を、過去の歴史から学び伝えていくことだと私は思っている。

韓国ドラマ『還魂』の最後に、敵役である者が語る言葉がある。

強き者がすべてを手に入れたら、弱き者は死ぬしかないのだ


部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。