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「渋染一揆」再考(19):倹約令(7)

極論になるかもしれないが、江戸時代の百姓は日本人本来の「農を生きる」典型であり、自然と共生しながら生きていたのではないかと考えるようになった。つまり、武士に厳しく年貢として生産物を収奪され、まるで奴隷のように働かされてきたという擦り込まれた貧農史観から脱却してみると、彼らは「生きるため」に自立して農業を行っていた姿が見えてくる。

例えば、「慶安の触書」にある、「麦・粟・稗(ひえ)などの雑穀を食べて、米を食いつぶさないようにすること」から、年貢である米を収奪するためであり、百姓は「米」を食べることさえ許されなかったと説明されてきた。だが、「麦・粟・稗などの雑穀」は今でこそ人々は食べないが、昔は普通に日常での「食べ物」であった。現在の価値観で江戸時代を判断すべきではない。

このことを強く教えてくれたのが、最近出版された渋沢寿一氏の『人は自然の一部である』(地湧の杜)だ。渋沢氏とは10数年来の知人であり、私の価値観や自然観を大きく変えた人物である。その彼がついに自らの「核心」を語ってくれた。
日本人本来の「生活」、森を中心に暮らす生活が具体的に描かれている。ほんの60年前までの日本人の自然と共生していた姿が語られている。この本を読みながら、私は現代の価値観(西欧式の価値基準)で江戸時代そして「倹約令」を読解していたのではないかと考えるようになった。


そもそも「倹約令」を百姓に対する<圧政と収奪>の根拠とする発想は、いわゆる「慶安の触書」に端を発する。
ある時期(ほぼ2000年頃)まで、「身分ピラミッド」と同じく、「慶安の御触書」(現在は「触書」に「御」を付けない)も教科書に記述され、江戸時代の農民(百姓)の日常生活を細部にわたって厳しく規制した幕府法令とされていた。
朝は早く起きろ、酒や茶を買って飲んではいけない、どんなに美しい女房でも大茶を飲み、物参りや遊山好きなものは離別せよ、そして米を食べるな、稗や粟を食べろ、等々の理不尽な命令であり、その結果、百姓の生活は貧しく苦しかったと説明されてきた。

しかし、山本英二氏の研究により従来の解釈がまちがいであるということが判明したことから、多くの出版社が教科書記述から削除していった。詳しくは、山本英二『慶安の触書は出されたか』(日本史リブレット38)山川出版社を参照してもらいたい。ここでは<帝国書院HP>より転載しておく。

『慶安の触書』は、1649(慶安2)年に幕府が発布した法令として、明治時代に編纂された『徳川禁令考』に収録され、長く教科書で紹介されてきました。しかし、近年これは幕府法令ではないという説が定説となりつつあります。実は、『慶安の触書』は、早くからその存在が疑問視されていました。その理由は、『御触書寛保集成』をはじめとする幕府が編纂した幕府法令集に収録されていないこと、『五人組帳前書』などの百姓支配関係の文書に引用や反映がないこと、なにより慶安当時に幕府の法令として出されたはずの『慶安の触書』の現物が、全く発見されていないことが存在否定説の大きな理由でした。しかし、『慶安の触書』が幕府法令でないのならば、一体何なのかが不明なため長く幕府法令として扱われていました。
近年になり、地域の史料調査が進むと、『慶安の触書』の原型と見られる文章が発見されました。それは17世紀半ばに甲州から信州にかけて流布していた『百姓身持之事』という地域の百姓に対する説諭的な教諭書をもとに、1697(元禄10)年に甲府徳川藩が発令した『百姓身持之覚書』という甲府徳川藩法でした。そして、当時の甲府徳川藩主は徳川綱豊で、のちの6代将軍家宣でした。
これを『慶安の触書』として広く流布させた人物は、幕府の教育機関として昌平坂学問所を整備した林述斎でした。彼は、19世紀前半に自分の出身である美濃国岩村藩の藩政改革に関与しており、その際『百姓身持之覚書』を『慶安の触書』として木版印刷を使って領内に流布させました。この『慶安の触書』は、林述斎に縁のあった東日本の幕領の領主が採用して広く流布することになりました。そして、明治になり幕府法令として『徳川禁令考』に収録され、全国に流布したということのようです。
以上のような経緯から、これは地域的な触書で、幕府による農民支配の一般的な事例ではないとして、現在では高等学校の日本史教科書をはじめ、中学校の教科書でも掲載されない傾向にあります。

帝国書院HP

山本英二氏の研究の最大の功績は、「慶安の触書」の実像を歴史的背景と経緯から明らかにしたことであるが、私はそれ以上に<圧政と収奪の根拠>とされた「慶安の触書」が、実は「百姓の(生活上の)心得」を説いたものであったことを証明したことであると思っている。

山本は戦前の皇国史観、戦後のマルクス主義歴史観(史的唯物論)によって「慶安の触書」は都合よく利用されたという。

彼(市川雄一郎)は、都市生活者の疎開農村における適応であるとか、戦時下の皇国食糧確保を近世農民の耐乏生活に学ぶといった論調で利用している。いってみれば、戦前における慶安の触書は、近代天皇制国家のもとで台頭した皇国史観の影響下に、人民支配や人心教化を示す材料として利用されたのである。
戦後歴史学は皇国史観の呪縛から解放され、天皇中心の非科学的歴史学から民衆中心の科学的的歴史学へと脱却した。科学としての歴史学の理論的支柱がマルクス主義であり、史的唯物論であった。…安良城盛昭に始まる太閤検地論争や、ほぼ同時期に議論された寄生地主論争も、その産物である。太閤検地論争は日本の封建制の成立を、寄生地主論争は日本の資本主義形成の途をいかに発展段階論に即して理解するかという論争である。
安良城は、太閤検地以前を奴隷制と規定し、検地により下人などの奴隷が小農民=農奴に自立し、封建制が確立すると理解した。いわゆる小農自立論である。当時小農自立論があれほどまでに注目されたのは、太閤検地の向こうに戦後の農地改革を見通していたからである。慶安の触書が理想とする夫婦二人暮らしの百姓は、ほかでもない寄生地主から解放された自作農そのものだった。このとき封建制下の村は、封建領主の過酷な年貢収奪と共同体規制にがんじがらめにされたマイナス面が強調された。そしてそれとは対照的に、農地改革による戦後民主主義のプラス面を際だたせたのである。
こうした戦後の近世史研究の成果を反映するかのように、慶安の触書は、歴史教科書に登場する。現在、わたしたちが江戸時代の村と百姓の実像を考えるとき、慶安の触書によって日常生活の細部にいたるまで干渉された農民統制が思い浮かぶのはそのせいなのである。いってみれば歴史教科書こそ、慶安の触書を、江戸時代で最も有名な法令にした立役者なのである。

山本英二『慶安の触書は出されたか』

山本英二氏は、次のように結論づける。

…慶安の触書は、1649(慶安2)年に幕府が出した法令ではなかった。かといって後世の創作物では決してない。もともとは十七世紀半ば、甲州から信州にかけて流布した地域的教諭書「百姓身持之事」を源流にして、1697(元禄10)年に甲府藩徳川藩領において改訂のうえ発令された「百姓身持之覚書」が本当の姿である。この「百姓身持之覚書」が、十九世紀半ばに幕府学問所総裁林述斎の手によって、1649年の幕府法令「慶安御触書」として岩村藩で出版され、全国に広まる。これこそ、今日慶安の触書が幕府法として誤認される最大の原因である。

山本英二『慶安の触書は出されたか』

重要なことは、多くの「倹約令」が幕府や藩の財政危機に際して発布されていることよりも、財政危機の前提(原因)が「自然災害」であり、その復旧のための支出の増大と農作物の凶作、そして飢饉への対応であったことである。
江戸時代、庶民を最も苦しめたのは凶作であり飢饉である。米を経済の根本としている以上、その米が収穫できないことは経済そのものが破綻する。米の不足は年貢米の減少と、米を売って現金化している幕府や藩、武士にとって収入(俸禄)の大幅減少となり、米価の高騰は米を買って生活する庶民(町人)にとって死活問題となる。米価の高騰が引き起こす物価高は「打ちこわし」の原因となる。

百姓身持之事(覚書)」とは、自然災害、凶作への備えの意味が大きい。「身持」とは日頃の行いのことである。日常生活を営む上での注意事項である。
そう考えれば、「慶安の触書」32条は、至極当然のことを述べている。

今も多くの教科書や概説書には、江戸時代の農民統制の基本姿勢を「慶安の触書」に求め、農本主義の立場から百姓を「無知蒙昧」と見なし、生活の細部まで干渉し、自給自足と生産増強による年貢の確保をねらいとして、最低の生活と勤労(農作業)の強制を要求したとある。武士による農民支配の理念と基準を具体的に示したものが「慶安の触書」である。
そして、江戸時代の百姓がどれほど武士によって抑圧されていたかの証左とされてきたのである。

まちがった歴史観から強引な歴史解釈を行うとき、歴史像は大きくゆがめられて、我々の歴史認識となってしまう。

「ちなみに、触書一条「公儀御法度を恐れ」を「怠り」とした誤記を「徳川禁令考」はそのまま受け継いで、広く伝わっている。教科書やHPなどにも引用されている。

部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。