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独善性の弊害

現在、ハンセン病問題の元凶である「光田健輔」(長島愛生園長)の功罪、時代背景と彼の思考についてまとめているが、江戸時代から続く家父長制の倫理(儒学思想の影響を受けた家族観)が社会や家族、個人の価値観・道徳観に強く影響を及ぼしているとはいっても、光田の頑迷さと独善性には呆れ果てる。自らの「信念」を貫徹する意志の強さ、ハンセン病の根絶に対する執念ともいえる情熱は認めるが、他者の声に耳を傾けることなど皆無であり、意に反する他者に対する冷酷な対応、さらに「目的のためには手段を選ばない」強引さには、権力者に共通する独断専行の恐怖を覚える。

同様の人物では、ウクライナへの軍事侵攻を「正義」と「救済」と信じて動じないロシアのプーチン、北朝鮮の金正恩などを思い浮かべるが、過去にもヒトラーなど多くの権力者がいた。
世界的・歴史的な権力者だけでなく、実は身近にも同質の人間はいる。彼らは気づいていないだけで、周囲や社会に相当の迷惑をかけている。

ネット社会の最大の弊害である、他者に対する<誹謗中傷・罵詈雑言>は、独善性が表出したものと私は考えている。ネットの進展により誰もが自由に「意見」を発信できるようになった。それは画期的なことである。しかし、個人の「自由」が拡大した反面、個人の「意識」と「判断」、何より「価値観」と「倫理観」が求められるようになった。それまでは新聞や雑誌への投稿しかなく、必ず編集による校閲があった。個人情報や個人への攻撃、不確かな情報などが公開されることは少なかった。今は個々の自覚と判断に委ねられている。この状況は、人間の価値観と倫理観の(良くも悪しくも)多様性を表している。それを世界規模で確認できるようになったのである。Qアノンや陰謀論から個人のプライバシーまで、それこそ遠く離れた町や村の近所の悪口さえ全世界の人間が知ることが可能なのだ。

結局は個人のネットモラルが問われているのだが、果たしてどれだけの人間が意識しているだろうか。ネットでの発信(たとえば、ブログに綴っている「日記」)が、感情的になって相手を攻撃する「手段」と化してしまう。自分に都合よく事実を改竄したり捏造したりすることができるのだ。

自説の正当性を主張するために、他者の論考を些末な論証や歪曲・曲解を基に、一方的に批判する論法、しかも他者の思考や人格まで疑問視し、声高に扱き下ろす筆法は辟易する。自分の優位性を示すために、他者の「学歴」を殊更に書き連ねながら非難したり、不十分な推察でしかないにもかかわらず最後には真実であるかのように断定する。具体的にそのような事実もないのに、攻撃されたと「被害者」を装うことで、自説が正当である証拠のように捏造する。

たとえば、プロバイダーから削除要請あるいは使用停止を命じられたことを、国家や左翼思想家からの攻撃であり、その理由を自説が彼らにとって困ることだからと吹聴することで、自説の正当化を図る。しかし、その具体的な証拠となる「事実」は決して明らかにしない。誰が、いつ、どのように「批判」しているかを、その具体的な内容は書かない。事実であるかのように、巧妙な表現で繰り返し書くだけである。彼の論法の常套手段である。具体的な事実が隠されたままに(そんなものはないからだろう)「攻撃された」の一点張りである。歪曲・曲解して妄想を膨らまし、それを「事実」であると思い込んでしまうのだろう。

過度の思い込みの連想が自分でも気づかぬうちに「事実」と化してしまうのだろうが、妄想を根拠に他者の人間性までも否定するような文章を「論文」と勘違いしてしまっている。ネット上に散見するブログやSNSによく見かける文章だが、読むだけで気分が悪くなる。

偏狭な独善性と頑迷な自己主張ほど、迷惑な話はない。

部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。