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部落史ノート(3) 「賤民史観」とは何か(3)

雑誌『現代の眼』(現代評論社)11月号に掲載されている、沖浦和光と菅孝行の対談「賤民史観樹立への序章」から、彼らがどのように「賤民史」を捉えているかをまとめておきたい。

賤民史、部落史は一面では制度史ですが、反面では、長い社会意識の歴史です。だから、制度史といっても非常に内面化されている。解放運動との関係で考える場合には、むしろ賤視観の歴史を掘りかえすことのほうが本質的なことかもしれません。
近世起源で解けるのは形にあらわれた制度だけなんですね。…頂点が律令制だということは、賤視観の大きな構造は古代につくられた、ということです。つまり、古代までさかのぼることによって、制度を支えている思想、意識構造にはじめてゆきわたる。

菅孝行は「賤民史」は「賤視観の歴史」であり、それが「社会意識」として制度を支えてきた、あるいは人々を規定してきたと考え、それを解明する必要性を提起している。
私も同感である。中世と近世の分断、その要因は戦国時代であるとも言われてきた。近世から近代もまた断続的であると言われる。長い歴史の中で分断されたり断続されたり、大きく変容もしてきたであろう。政治体制や社会のしくみ、経済や産業の形態が変化すれば、人々の営みも生活様式も、さらには文化・芸能も発展してくれば、それらの相互作用の過程で人々の意識や社会意識も変貌してきたことは誰しも理解できるだろう。しかし反面で「変わらないもの」「続いてきたもの」もある。差別の対象や差別の内容が変わっても、底流を流れる「差別意識」は変わっていない。

賤民とされていた人々の呼び名は、各地方によって常に違うんですね。
これはその地方の中世いらいの賤民制のありかたの独自性を反映しているからでしょう。
中世末期は分国法が主で、しかもそれは成文法ではなく慣習法です。中世賤民のあり方と各藩の賤民政策がそのまま引き継がれていったから、呼称もいろいろ独自性があるということです。

たとえば薩摩藩では“慶賀”、一見すればいい名前なんです。それから“死苦”と“行脚”、いずれも賤民なんですね。“慶賀”というのは祝い事のほうですね。古代の遊行神人=乞食人(ほかいびと)の名残ですね。“行脚”はアルキ横行、アルキ巫女などのアルキですね。これも<ほかいびと>の系譜です。“死苦”は皮はぎだと思うんです。

中国地方に行きますと長州に“宮番”があり、隣に行くと“茶筅”が多い。それから“鉢叩”。鉢叩も中世の念仏ひじり系の遊芸民をさします。関東地方では、“長吏という呼称が一般的ですね。紀州から伊勢にかけては、“番太”“風呂系”“ひじり(聖)”“狙公(えんこう)”“骨不足”“ささら”という呼び名もある。あとの三つは遊芸関係ですね。北陸の加賀藩に行くと“藤内”という名前が残っています。藤内は、医者も遊芸者もいわゆる長吏もなんでもやっていたようです。

他にも中世にはさまざまに呼ばれていた賤民がいた。各地方独自の呼称で呼ばれていた賤民が戦国時代を経て江戸時代の藩支配まで続いていた。

では、“穢多(えた)”はどうだろうか。沖浦は、諸説あるとした上で、皮剥ぎを中心に河原にいた賤民であり、各藩が元禄から享保にかけて賤民に対する呼称として意識的に採用し出して、それを幕府が一般化したという。特に、「徳川吉宗が古代からの法制史を徹底的に調べ直し」「いままで慣習法が主であったから体系化していなかったところをできるだけ成文法的に一本化しようと」し、「人民統制の方法も研究して、はじめて賤民の制度がいかなるものであったか、どういう機能を持っていたか、ということを全国レベルで統一的に認識する視点を持った」から「いままで各藩に任せておいたものを、ようやく幕府として全国統制し賤民制をはっきりと人民統制の一環とした位置づけようとした」のだと考える。

沖浦はその根拠として、穢多頭の弾左衛門に「由緒書」を提出させていることをきっかけに全国的に賤民統制に乗り出したこと、また、部落寺院の中世末起源と、幕府の宗教政策、つまり「強制的に他宗派から転向させられた」ことを根拠に、「一向宗、つまり浄土真宗は身分の低い者が帰属する宗派だという(民衆の)イメージ」を「利用して一種の隔離的政策をとった」ことを挙げている。

しかし、私は沖浦の説に必ずしも首肯できない。まだ中世から近世、近世から中世、さらに江戸から明治における賤民の連続性と非連続性を自分なりに十分には把握できていないからだ。つまり歴史の流れの中で<どのように変容・変貌してきたか>、また<その変容・変貌の理由は何であったのか>等々の疑問が沖浦の説明だけでは納得できない面がある。(これは今後の私の課題だ)
菅は、私の疑問について次のように述べている。

…賤というのは一体何だったのかという問題が、もう一回非常に重要な意味を持ってくるんじゃないか。いやしいというのは、悪いとかくだらないとか役に立たないということとは明らかに違った意味を持っているわけです。そのことは近世だけ見ていたんじゃよくわからないけれども、賤民制が制度として定着する以前のあり方をみてゆけば、解けるのじゃないか。差別される存在というのは、制度的上下関係ということと別の次元で考えると、なんらかの意味で支配階級や良民の日常から隔てられた存在であって、近世幕藩体制の枠組みにおしこめられる前の状態という者を考えてみると、決して一方的に賤しめられていたわけではない。非常に不思議な存在というか、一般農民大衆の生活と違った生活体系をもっていて、全く違った仕事に従事していて、それゆえに摩訶不思議な存在であったというケースが非常に多い。農民はだから、そういう人々を自分たちとちがった他者として区別する意識をもっていた。それはあこがれでもあり、おそれでもあって、けっして、賤視に一面化できない。そういう区分の意識が幕藩体制の中で差別の制度と結びつけられた。そうして自他を区別する意識がそっくりそのまま上下に差別する意識に編成されていった。
それが古代、中世、近世とくる間に実はいろいろな紆余曲折を経ているわけであって、その最終段階が幕藩体制中期の差別制度の確立ということになるんじゃないか。

菅の言う「あこがれでもあり、おそれでもあって」は<敬いと畏怖:畏敬の念>と形容される感情(意識)であり、中世史の研究者などによってさらに詳しく解明されている。ただ、このアンビバレントな意識が近世にかけて、個別の賤民に対する周囲の意識が、あるいは個々の賤民の存在形態がどのように変容していったのか、変容した者とそうではない者、さらにはその要因は何か等々が明らかではない。


「賤」の概念について沖浦は次のように説明する。

中国の場合は、身分制編成の基本概念は貴と賤、あるいは尊と卑という対抗概念ですね。貴を代表するのが王権で、賤はもちろん賤民ですね。その貴と賤はいずれも貝という偏がついている。
貝はお金ですね。周の時代までは貨幣は貝ですから貝は価値をあらわしている。…貴は非常に大いなる価値、賤は価値薄きもの、これがもともとの語源なんです。貴・賤・尊・卑という人間社会の価値序列を説いたのはよく知られているように孔子の学説を中心とした儒教です。…
…つまり、貴・賤は同じ価値序列における高い低いをあらわす。いいかえれば、いずれも同一の身分制内における上・下関係をあらわす。尊卑も、卑は“ひくい”をあらわし、主として家父長制における上・下関係を表現する。

そこへ仏教が入ってまいりまして、仏教が穢れという問題を大きく持ち込んでくるわけです。仏教は前漢の時代にインドから伝播してきている。…非常に栄えるのが隋から唐の時代ですね。貴と賤の対抗関係の中にさらに浄と穢の観念が入ってくる。…貴と賤という観念とが基本にあって、そこに浄と穢という観念が加わって賤民制の概念ができ上がってくるわけです。
…浄と穢の場合は完全に質的にちがうおたがいに両立しえぬ対立概念ですね。…穢れとされたものは身分外の身分として、身分制のさらにその外にあるものとして扱われる。

沖浦の説明に従うならば、中国から律令制(律令思想)とともに貴賤観が入り、次に仏教思想の尊卑観(浄穢観)が伝わり、日本の律令制の制定に取り入れられていった。沖浦は、貴賤観や浄穢観は農耕を至上とする観念(価値観)が定着する過程で制度的にも民衆に浸透していったという。その証左として、『延喜式』に出てくる「天津罪」と「国津罪」を挙げる。

天津罪とは何かというと、畔を破壊する、用水路を埋める、樋を破壊する、二重に種をまく、田に串をさす、生物の皮をはぐ、脱糞する…これを罪名にあげています。というと、ほとんどが農業に関係するわけですね。農業生産を邪魔するやつは天津罪。国津罪というのは、主として儒教倫理の侵犯に近い当時では一般犯罪や災害をさしているわけです。ただ注意しておかねばならないのは、この“つみ”は禁忌、すなわちタブーに近い意味をもっていたということですね。だから農業を破壊する行為は天津罪であるのをみても、農耕を上にするという観念がすでにはっきり入ってきている。農業中心的政策というか、商・工あるいは農以外の雑業に従う人を差別する。品部・雑戸などの朝廷直属の重要な仕事を担っている部民たちを準賤民としたのも、こういう思想にもとづいていますね。

農耕民族・農耕社会において農産物は生活基盤である以上、「農業生産を邪魔する」ものは最も許しがたい存在であり、農業に従事する者(農業生産に貢献する者)が被支配層の中で最も高くランクされる。逆に、農業に従事しない者は「賤」とされる。この農業を価値基準とした制度の中で人々は二分される。
では、その制度の中で生きてきた人々、特に農業に従事している人々が、農業に従事していない人々をどのように見ていたか。菅は次のように言う。

…自分と違う者、定着してない者(漂泊しながら仕事をしている者)をいかがわしいと思う意識…不可知の存在、神秘的な者が、自分とはちがうものとして意識される…ふつうの人とはちがう特別な人たちのすること…こういう仕事は特別なもので、ふつうの人はしないのだという伝統的な区分が大衆の意識の中に定着している。

非農業者の中でも、特に宗教的儀式と関わりが深い、神秘的なことを司る人々がなぜ「賤」とされていったのか。「聖」から「穢」へと転換したのは何故なのか。私もこの<転換>が未だに疑問である。
沖浦が言うように「文化人類学や歴史民俗学、比較宗教学の課題」ではあるが、菅の言うように「律令国家の形成過程とか、それ以後の政治権力の性格の変化と、それに対応する社会構成の変化と深く関わっている」と私も考えるが、その<転換>を歴史の中で見いだす、いつ頃に、どうして、どのように、なぜ…が解明されることで、賤民史あるいは部落史のなぞの一つが解けるのではないだろうか。

沖浦は、「祝い事」を例に、次のような見解を述べている。

たとえば、祝い事というのは古い時代から賤民の仕事なんです。寿言をのべたり慶舞を舞ったりしたのは、古代では海の民や山の民ですね。かれらは、ある意味では“境外の民”“在外の民”として扱われた。…遊行神人=乞食者のはしりですね。千秋万歳といっていまの漫才のもともとの起源なのですが、中世の河原や宿や散所に住んで賤視されていた人たちの仕事の大きい部分は正月の祝いに出て祝福儀礼をやることだった。
<聖>と<俗>の文理がはっきりし、それとともに呪術的機能と祭祀的機能の分化が進行する。祭祀的機能をもつ者が聖なる主権へと上昇していって<貴>となるのに反して、呪術的機能を担っていた者はしだいに<賤>に転落させられていく…。古代のホカイビトは、呪術的機能の担い手であり、そういった系譜をひく“うかれびと”=“ひぎひと(祝ぎ人)”だった。

やはり、「<賤>に転落させられていく」理由がはっきりしない。私の勉強不足は否めないが、それでもある程度は諸説を読んだが、まだ判然としない。沖浦は、中世賤民の担った「清目(キヨメ)」に着目している。

神社の祭礼などでも、被差別部落民が先導をつとめたり、みこしに乗ったりして重要な役目を担わされていた…着目すべきは、中世の清目ですね。これは広い意味では、清浄にする、不浄を取り除くということですね。…この清目は中世選民です。その中でもとくに賤視されていた、穢れの多い人間が、穢れを取り除く仕事をやる。インドでもいろいろなサブ・カーストがありますけれども、不可触民の中でもっとも差別されているのが皮はぎと清掃なんです。これは日本も同じ、朝鮮では白丁ですね。同じ賤民の中でも、もっとも賤とされているものは共通しているんです。

この「ケガレ」思想、特に「ケガレ」が触れることで伝播していくという触穢思想が「<賤>に転落していく」要因であった。その「ケガレ」を浄めるのも<賤>である「清目」である。つまり、「賤民を差別する一つの思想的起源はこのような穢れ意識」であると沖浦は言う。
この考えは部落史の定説となっているが、だれが・いつ・どのように決めたのか、つまり誰が彼らを<賤>に転落させたのか、その理由は何か、そして大衆の意識に根付いたのはいつ頃なのかを考える必要がある。


繰り返すが、「賤民史観」とは被差別部落民(穢多・非人など)は<賤民>であり、そのために貧困で悲惨で差別を受けている人々であると歴史的に解釈する考え(立場)では決してない。まず「史観」(歴史観)の意味から間違った用法である。

「史観」とは、歴史的世界の構造やその発展についての一つの体系的な見方、あるいは歴史を解釈するときの根本的な考え方・立場であると定義されている。この定義に当てはめるならば、「賤民史観」とは歴史(歴史的世界の構造)において賤民がいかなる役割を果たしてきたか、あるいは賤民が歴史の発展にいかなる影響を与えてきたか、などを解明することで歴史を解釈しようとする立場であると定義できる。
「賤民」を貶める、あるいは「賤民」とされた人々ないしはその子孫を「賤しい存在」と歴史的に規定する歴史解釈(歴史観)ではない。

また「愚民論」でもない。賤民の歴史を解明することを通して、なぜ賤民という存在が歴史の中において生まれたのか、誰が何のために生んだのか、そのまちがいを糾すことが目的ある以上、その前提となるのは民衆の愚かさではない。民衆を愚かではないと考えるから差別をなくすことができると、歴史に学んでいるのである。

自分の独善的な考えで他者を選別する、自説に賛同するかしないかでしか他者との交流ができない人間こそが「愚民論」の持ち主であると私は思う。

部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。