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自分が死んだら哀しんでくれるのか?という思考について。

“自分が死んだら哀しんでくれる人がいるのか”

なんて、よくある有り触れた思考にふと、違和感がよぎる。

自分が死んで哀しむ人を想像するとき、それは嬉しいんだろうか。それとも安心?

逆の立場を思うとき、死んだあなたを見て私は哀しい。

やっぱりそうだ、だからこそそれを想像すること、つまり哀しんでくれることを嬉しいという思考は何かがおかしい気もする。

必要だと、そう思われていたいからだろうか。

そもそも必要とされるためのいのちなのだろうか。

いのちを思うとき、人は我儘になる。でもそれって根本的に正しいのかもしれない。

この違和感はその正しさを認めたくが無いゆえの違和感なのかもしれない。

人は/私は、綺麗事に埋め尽くされて居たい/痛いんだろう。





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