「ナポリの男たち」に思ったよりハマっていたことにいまさら気がついた。

駆け出しのライターとして出会ったメンバーたちが、毎回特定のテーマに沿って好きなように書いていく「日刊かきあつめ」です。

今回のテーマは「#ハマった沼を語らせて」です。

「沼にハマる」というと、やや盲目的で、時間的、金銭的援助を惜しまない印象が強い。だから、「好きなものはあるけれど、沼というほどでは……」と一歩引いてしまう。それを言い出したら多くの人がそんなもので、案の定、かきあつめメンバーも「(沼と言うほどには)ハマらんなぁ」という話が多いようだ。よく分かる。

そういう意味では、私も沼にハマったことはないのだと思う。20年来好きなバンドはあるけれど、ライブに行ったことはないし、CDも欠かさず買うかと言えばそんなこともない。かと思えば、小説とコラボした楽曲があると聞けば、その小説を買って読むくらいのことはする。要するに、自分の興味関心が湧けば動くけれど、彼らの活動の一切を支援しようといったパトロン的精神はないのだ。

しかしそんな人間でも、あれこれ思いめぐらせてみると一つくらいはハマった沼(のようなもの)があることに気がついた。

私のハマった沼は、『ナポリの男たち』というゲーム実況グループだ。ジャック・オ・蘭たん、すぎる、hacchi、shu3の男4人組。約6年前に結成されたころから活動を追っていて、彼らのチャンネル会費だけは、投稿された動画や配信を視聴する時間的な余裕がない今でも、応援の意味を込めて払い続けている。

使わなくなったサブスクは、毎月末に精査してこまめに解約しているので、見ないのにお金だけ払う、というのは私にとってかなり異例の行動だ。Tシャツやらラバーマスコットやら、グッズ課金もした。妻も巻き込んで、ごはんどきに彼らの放送を見ることもしばしばある。冷静に考えると、けっこう、どっぷり浸かっているのかもしれない。

せっかくなので彼らの魅力を語りたいのだけれど、ゲーム実況という文化自体、触れない人はほとんど触れないだろうから、何から説明していいものか迷う。ゲーム実況グループ、と便宜上説明したものの、別にゲーム実況が活動のメインというわけでもない。4人の活動のメインは、ニコニコ動画の『ナポリの男たちch』で毎週土曜日22時から配信している、チャンネル放送だ。

放送は90分ほどの尺で、前半60分はお題に沿ったトークをして、後半30分でメンバーが用意してきた動画を流したりボードゲームをやったりする。メンバーは一部例外を除いて顔出しはしておらず、トーク中の画面は基本的に静止画のみなので、ラジオのように音声だけで楽しむこともできる。

トークのお題は「ホイミ(ドラクエの回復呪文)でどこまで治るのか」「ギリ耐えられる技」「一生ペロペロするなら何を選ぶ」などなど、何言ってんだこいつら、と思わされるものも多い。ちなみにナポリの男たちなんて名前だけれど、イタリアのナポリとは縁もゆかりもない。そういう、ナンセンスなことをやる人たちなのである。

年齢ははっきり公表していないけれど、アラフォー3人、アラサー1人で構成されている。雰囲気は「中学校や高校の教室の隅で遊戯王カードをやっていた陰キャグループがネット上でキャッキャしている感じ」で、陰キャあるあるや懐かしのゲームトークも多い。陰キャの自覚がある30~40代なら、きっと心地良く感じるだろう。

結成初期に「介護疲れに効く」と視聴者からコメントが寄せられたこともあり、本人も視聴者もたびたびそれをネタにするけれど、決して大げさな話ではない。仲良し4人組の会話を聞いていると、自然と力が抜ける。かと思えば、「ホイミって僧侶が覚えるけど、モンスターの中にも使うやついるよね。神様の力で治癒してるのだとしたら、人間もモンスターも同じ神を信仰してるのかな……」といった具合に、しょうもないお題から思いがけず深い話に着地したりもする。

先日の放送では、メンバーの一人であるhacchiが「いまが一番幸せなのかもしれない」と自認する発言をしていたのが印象的だった。他のメンバーから「え、死ぬの?」と少し茶化すような言葉が出たことでその場は笑いに昇華されたけれど、hacchiが「幸せって何?」と長年思い悩んでいたことを知る視聴者の中には、涙腺が緩んだ人も多いはずだ。少なくとも私はすこし泣いた。

この距離感を、味わったことのない人に説明するのは難しい。アイドルとは違う。友達の方が近い。会ったこともなければ顔も知らない人の話を、一方的に聞いているだけで友達のような感覚になるというのもぞっとするが、まあ感覚的にそうなので仕方ない。

この感覚は、フィリップ・K・ディックの『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』に登場するマーサー教を信仰する人々のそれに近いのだと思う。

本作は映画『ブレードランナー』の原作小説だが、マーサー教の設定は映画版に引き継がれていない。作中でマーサー教は、共感を司る象徴としてたびたび描かれる。

教祖である老人ウィルバー・マーサーは、険しい山をひたすら登り続けている。それが現実のものか仮想のものかも、作中では明示されなかったように思う。山を登るマーサーに対し、姿の見えない何者かが石を投げつけ、腕や頭に当たり出血する。山の頂上までようやくたどり着くころ、今度は谷まで転げ落ちてしまう。振り出しに戻ったマーサーは、また山を登り始める。

マーサー教を信仰する人々は、各家庭に設置した特殊な装置で彼の凄絶な山登りを繰り返し追体験し、マーサーを通して苦しみや痛みを「共有」するのだ。そして共有した先で、「自分は一人じゃない」「人らしさをまだ持っている」ことに安堵する。

『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』では、世界中を巻き込んだ戦争の果てに人口が極端に減少し、人同士の触れ合いが極端に減っている。そんな世界を想像したとき、ディックはマーサー教のような感覚共有ツールがきっと人々に求められると考えたのだろう。現代には無数のマーサー教が存在している。沼にハマるということは、いずれかのマーサー教を信仰することと近似しているのだと私は思う。

ナポリの男たちを見守る私たちは、彼らを通してあらゆる情報や感覚を共有しているのかもしれない。それは、インターネットが発達し、リアルな触れ合いが減った現代において、不可欠になる感覚ではないだろうか。

最後に、無料で視聴できるおすすめ回をいくつか貼っておくので、興味が出た人や、最近ちょっと心が疲れているという人は、ぜひ試してみてほしい。日々の介護疲れや育児疲れが癒されること請け合いである。

執筆:市川円
編集:アカ ヨシロウ

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