見出し画像

海を見て、何を思う。


今日は雨。

ぽろ、ぽろ、ぽ…ぽぽ、ぽぽぽ…

家がちがうと、雨の音もちがう。


次男が、どうしても望みのガチャガチャを探しに行きたい、というので、小雨の中外に出た。


高校生のとき、雑貨屋で買って気に入って使っていた傘が、今も実家の玄関の傘立てに入っている。
オレンジの細かいギンガムチェックの生地で、持ち手がミルキーな白と透明感のあるオレンジとのツートンでできていて、それがキャンディーのようで、好きだった。
久しぶりに持って、そのつるりとした柄をなでてみる。


ちなみに昨日は、家から東側に歩いてあちこちのお店を覗いてみたけれど、お目当てのものがなく。
今日は西側に歩いてみて、ようやくひとつ彼のお眼鏡にかなうものが見つかり、さらに第一希望のものが出てきてご満悦のようす。




昨日は晴れていて、海まで歩いて行ってきた。

風が強くて冷たくて、でも春の海の色。




空と海の、何重もの青の層。
ちょうど折り返すラインの波の色は、ラムネのびん。
白いしぶきを立ててひきあげる波は、ベールのよう。
(おぉ、陳腐な語彙よ…)


波が寄せては返すのを、長いあいだ、ただ眺めていた。

ちょうど、持ってきた本の中に海に関するエッセイがあって、それを思い出す。


海のいいところ。

海は人に所有されていない、少なくとも土地のようには。わたしは地中海を愛しているけれど、それは北海を愛したり、オホーツク海を愛したりするのとまったく同じで、ちょうどいま目の前にあるこの海を愛しているにすぎない。そこにはほかとの優劣がなく、また起源も誇らない。それが海であるというだけで愛するに足る ー これが海のいいところだ。


と同時に、こんなことも。

海のもらたす憂鬱の核心は、寄せ返す波が同質の時間を無限に引きのばしてゆくことの恐怖に由来している。

海が垣間見せる永遠の面影は、人生の短さと対比されるとき、さらに恐ろしいものになる。

小津夜景「いつかたこぶねになる日」より



私は、どちらかと言うと…
時間よりも、無限に思えるその空間。

物心ついたときから、海を見るときは常に畏れが伴う。

…そうだ。
今でも、きれいだな、の奥にいつも必ず言い様のない不安と恐怖がある。

それは、上の引用の「人生の短さと対比されるとき…」と同じ種類のものかもしれない。
人間の営みと対比されるとき、圧倒的な大きさを感じるから。



また、明日には海のないところに帰ります。


今日も読んでいただいて、ありがとうございます。





この記事が参加している募集

ふるさとを語ろう

散歩日記

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?