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シャロン

相変わらずROSSO「シャロン」をループで聴き続けている。ここ数日はそれにCoccoの「風化風葬」と「クジラのステージ」も加わった。

Savage Gardenを歌いに出る前に、その日の曲でも聴いて備えておけばとも思うんだけれども、なかなかそうもならない。やはりひしひしと近づいてきているのを感じる。それまでにどこまでできるか。もうわからない。

"Affirmation"(Savage Gardenの2ndアルバム)全曲歌い直しは12日に"The animal song"の積み残しを済ませた。既に予定よりも3日も遅れているので、そのまま次へ移ればよかったんだけれども、雨が降って気加熱でひどく寒かったせいか消耗して帰宅してしまった(これで4日遅れになってしまった)。13日は(ロマンス文脈ではないけど)私のエレジー"The lover after me"を歌った。やっぱりわりとしんどかった。

チバさんの曲で私の脳内に明確に刻まれていたのは「シャロン」だけだった。
前にも少し書いたように、私はティーンの頃(何故か)THEE MICHELLE GUN ELEPHANTのCDを手にしたもののそのまま素通りしてしまったし、大学以降のライブジャンキー時代にはフェス等でThe Birthdayは何度か聴いているけれども、それとROSSOも「シャロン」も明確には結びついていなかった。

どこで曲を知ったんだろう?
リリース時期的にはもうTVKテレビを見られなくなっていたはずだし、ラジオで耳にして特定した可能性が高いかな。
「シャロン」「シャロン」として、どこか深いところに保管されている感じで、滅多にそれが引き出されてくることも無かったし(他のスクリーンショット集と同じかも)、カラオケで歌ったことも無かった。友達にこの曲好きだと言ったことも無い。
そしてチバさんについても、元THEE MICHELLE GUN ELEPHANTやThe Birthdayのフロントマンで非常にユニークなボーカルスタイルの方(後は大酒飲みとか並木のスーツのエピソード)くらいの認識しか無かった。

今回、チバさんの訃報で突如曲が浮き上がってきた形になるんだけれども、よりによってこの時期にこの状況で、というのもいったい何の因果か、という感じがする。
あまりに刺さるしザワついたのでチバさんについて調べたら、幼少期からのバイオリン(教室からの逃亡)、幼稚園から高校まで玉川学園系列の湘南学園という教育環境を経ての明治学院大学ということで、成育背景に「(察し)」となり、ここを謎感覚が捉えて(危機回避のため)離れたり、逆に「シャロン」を強烈に、しかし秘密裏に刻み込んだりしていたんだろうとわかった。

チバさん、ギターも上手いし、歌もああいう形なのに軸がしっかりしているんだよ。これには絶対クラシック(バイオリン)の素養(と先天的な才能)が活きていて、でもあえてその形を変えてチバさんはギターとロックとあのシャウトで表現していたんだろうと感じた。
あと、歌詞。私は「シャロン」の他に浮かぶのはThe Birthdayの「涙がこぼれそう」くらいなんだけど、わりと比喩的な表現に長けている感じがして、きっとこれって湘南学園での教育にもルーツがあるんだろうなと思っている。残念ながら個々の曲を聴けてはいないんだけれども、ディスコグラフィーを眺めていたら動物とか鳥とかがタイトルになっているものも多くて、それとあの歌い方とのギャップが非常に興味深いと思うし、そうそう、何よりROSSOのデビューアルバム(「シャロン」が入っているもの)が、なんと"Bird"で驚愕した。空とかその先を見ている歌詞もわりとありそうなイメージ。

チバさんも鳥だったのかもしれない。"Affirmation"の時期のダレンや、デビュー時のロブのように。ロブといえば、歌詞に直接的に「鳥」とか「空」とかが出てくることはあまり無いんだけど"If you're gone"では高いビルの屋上から飛び降りそうなシーンがあるし、"Push"には磔みたいな感じにカラスがとまっているシーンがある。そう言えばGoo Goo Dollsの"Iris"でもフロントマンが高所にいて飛びそうなシーンがあるんだよね。不思議。

私は昔(世界を諦める前)は、こういう鳥ソング的な雰囲気を、おそらく防衛のために避けていた(在職中にも日常の維持のため「飛びそう」なandymoriを避けた)。全て無意味のうちに。
しかし今はもう終わらせるだけで防衛の必要は無くなったから規制も外れたのだろう。そうして、だからなのか、ダレンとも、ロブとも、チバさんとも、再び繋がった。これは最後の整理のために、必要なことでもあったんだと思う。出会うべきものには出会うべきときに出会う。たとえすれ違ったり離れたりしても、縁のあるものにはどこかでまた繋がっていく。やはり全ては大きな流れの上にあるのだと感じている。

「シャロン」って誰なんだろう?「冬の世界」って何なんだろう?

私はチバさんをずっと追ってきたわけではないし、ロック好きの話題の中でどこかで聞いたものとか最近wikipediaで読んだ以上のことは知らないから、実際にチバさんが何を想ってこの曲を書いたのかはわからない。
しかしそれでも感じるのは、おそらく以下の共通項のようなものが、どうしようもなく私を引き寄せたんだろうなということ。

それは語り手が「今ここの自分」以外の世界や存在にいる/なることを希求していること。その気持ちと生育環境や死のイメージのリンクがあること。一方、そのような内面とは別に、おそらく日常は、端から見れば恵まれているとか楽しそうとか場合によっては破天荒だと思われながら、そして本人としても「それなりには」受け止めつつ楽しみながら過ごしているであろうこと。しかしそれは常に紙一重のところで儚く崩れ去る脆さを兼ね備えているであろうこと。

語り手は繰り返し、「シャロンみたいになれたかな」と言っている。これはつまり、自分以外の状態や存在になりたい(自分から離れたい)ということ。
その「シャロン」がどのような関係性の相手なのかは曲中で明確に示されてはいないけれども、おそらく、語り手の「表向き」以外の姿や内面を吐露できる、非常に限られた存在なのだろう(リアルの存在でない可能性もある)。

語り手が「欲しい」と述べるのは「月から抜け出す透明な温度だけ」「それだけ」。何でもかんでも多くを望んでいるわけではない。おそらく普段はそれなりの日々をそれなりに満足しながら過ごしているのだろう。
でも。「時々 思うよ 時々」と、「時々」を繰り返し強調しながら、語り手は抜け出す術を切望している。密かに「冬の星に生まれたら」と、つまり、自分が本来の自分と異なる環境にあったなら、と思い描きながら。

「それなりに」やれているように見えても、語り手にとっては決して「ワンダーランドはこの世界じゃない」のだ。

「サンタクロースが死んだ朝」
「甘いマシンガン ボーダーラインがにじんで消えた」
「カーブを曲がりたくなかった ハンドルから手を離した」
「子守唄がまっぷたつに引き裂かれて雨降らせた」

語り手の描く風景は刹那的でどこか死の気配が漂う。加えて暖かな「ホーム」というか「家庭」の象徴、特に無邪気で幸せな子どもの世界を塗りつぶすような表現が並ぶ(「サンタクロース〜」「子守唄〜」)。

どんなに経済的に恵まれていても、能力や才能があると言われて結果が出せてしまったとしても、それを羨ましがられたりしても、それは本当に幸せなことなのだろうか?自らの意志を尊重されることもなく、勝手に設定されたレールの上を走ることを要求され続けることが。
勿論、経済力、文化資本や先天的な能力によるメリットがあったことは知っている。それによって自分の足で立てている面があることも。しかし。

「悲しいから うさぎは死んだ」
「そんなことは わかってたのに」

普段は封印してなるべく考えないようにしている。でも「それ」はずっと、常にどこかに潜み続け、ふとした瞬間に立ち上がってくる。例えばサンタクロースの時期とかにね。

私は周りにクリスチャンが多かったから、こんなことはとても口に出せなかったけど、クリスマスはずっと、本当に苦痛だった。宗教的な側面のクリスマスというよりも、ジャパナイズ&商業化されたキラキラクリスマスが。イルミネーションやツリー、プレゼントやセールにと浮かれた街並み。浮き立つ人々、とその背後にある居場所と共に過ごす人々の存在。いや、恋人が欲しいわけではないから、やっぱり寄るべがないところ、西洋的なクリスマスの過ごし方イメージと自分のギャップにかな。

私には何も無い。勿論ロマンス避けは自らそうしている「選択」でもあるわけだけれども、やっぱり自分は「違うんだな」とつくづく感じる。普段は「違ってなんぼ」くらいに思っているのに。

もう最近は無いけれども、友達の結婚出産報告もわりとキツかったかな。学生時代は皆同じような感じで過ごしていたけれども、やっぱり根本的な差があったよな、と。私は自分が「家庭」を築くとか「子ども」を産むなんてことは、とてもとても考えられなかった。(チバさんは結婚なさっていたようだけれども。それはおそらく「ひどい虐待」が無かったからではないかと思う。)

志村さんのことも重なった。志村さん、亡くなったのは24日、その発表があったのが25日だったんだよ。その3年前には渋公でクリスマスライブがあって、満喫して、その後フジは本当に上り調子で、まだまださあこれからだっていうところだったのに。

私にとってのクリスマスのイメージと、「シャロン」のイメージは見事に重なった。渋公って「パルコ」の前を通って行くんだよ(渋谷から向かう場合)。今あそこがどう呼ばれているかはもう把握していないけれども。

「サンタクロースが死んだ朝」
「甘いマシンガン ボーダーラインがにじんで消えた」
「カーブを曲がりたくなかった ハンドルから手を離した」
「子守唄がまっぷたつに引き裂かれて雨降らせた」

不思議なことに、チバさん、志村さんと誕生日が同じだった。7月10日。
シルエットもちょっと似ているところがあるよね。特に「シャロン」(チバさん)と"Chronicle"(志村さん)の時。声を含む歌い方が独特なところも共通点かな。志村さんは諸々チバさんよりだいぶ穏やかだけれども。

毎年7月と12月に「夕方5時のチャイム」を聴きに(それ以外の時にも)通っていた富士吉田にももう3年半くらい?行けていない。いつまた行けるようになるかなって思っていたんだけれども、結局機会が訪れることはなかった。

「ねえシャロン 月から抜け出す 透明な温度だけ 欲しいよ それだけ それだけ シャロン」

決して多くを望んでいるわけではないはずなんだよ。
欲しいのは、「それだけ それだけ」。

可能であれば、たとえ持っているもの全てをひっぺがされたとしても、平穏に、脅かされ踏み躙られることなく過ごせる「普通でありふれたはずの」日々とそれを許される自分が欲しかった。
それがわがままなの?望み過ぎなの?ねえ?

、、私には呼びかけられる相手もいなかった。。

「悲しいから うさぎは死んだ」
「そんなことは わかってたのに」

そう言えば、PARCOカード、サービス終了するみたいだね。私も持っているんだけど、メールで連絡がきていた。

昭和、高度成長の時代の名残も次々に朽ちていく。最近はもう行っていないけど、パンデミック後の渋谷なんてただの臭いアジアの街って感じだったし、渋谷だけでなく、かつては文化や発展の象徴だった街、世界から憧れられた/注目されていたところだって、今は「物価が安い」「コスパよく楽しめる」場として、見事にインバウンド様方に「消費」されている。「安く消費」されるものが尊重されることなんか無いよ。ひたすら吸い尽くされて滅びるだけ。

私はマゾヒストではないし、搾取して踏み潰していただく必要も殺していただく必要もしがみつく必要もないから、理不尽のループからは逃げるし終わらせる。抜け出す。自分を救えるのは自分だけなのだから。自分で。救ってあげないと。


吉田のうどんもまた食べたかったなあ。富士吉田、いいところだよ。

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