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イエテ◯ソラへ (3)☆ 思いつき!☆

 屋上の扉を少し開けて、すべり出ると、風がまともに吹きつけてきた。大きな広ーい青空だ。そうっと扉をしめる。
 ああ、叫び出したいような、空の広がり。わたしは思わず両手を広げて、跳んでまわった。生き返るみたい! この開放感!
 屋上は照り返しがまぶしくて、目が開いていられないほど。でも、いい風が吹いている。空には、飛行機雲が二本白く長くつながって見えるだけ。一面の青さだ。つばさを広げたカラスが、青いキャンバスの中に黒いもようを描きながら、ゆったりと舞っている。
 ああ、重苦しいものが、みんな青色にとけこんでいくよう。空をひとりじめしてる! たまらない満足感!

 目を移すと、となりの飛鳥ビルの、屋上庭園をかこんでいるカイヅカイブキは、ところどころ途切れながら、コンクリートべいの上の、鉄柵から、大きく濃くはみ出していた。高さもぐうんと伸びて、その向こうに、何が植わっているのかまでは見えない。たしかに、もう5年が過ぎていたのだ。
 その5年の間に、この園田ビルより高いビルが、遠目にいくつも建っていた。駅ビル、生命保険ビル、デパートなどなど ‥。気をつけないと、ここにいるのを、見られてしまう。ただ、少し離れているのと、こちら向きの窓が、ほとんどないのが救いだ。
 コンクリートの広い床には、パラボラアンテナの影しかないので、暑さをのがれて、わたしは〈おやしき〉の軒下に避難した。軒は深く、陰に入ると、風が汗を吹きとばしてくれる。この〈おやしき〉がなつかしくて、軒下ぞいに南の縁側にまわってみた。
 縁側の外に、日よけのよしずが立てかけてあって、中をのぞくと、ガラス戸が開けられ、網戸を風がぬけている。よしずのまわりには、植木鉢を置いてあった跡が、いくつも残っていた。

 パパといっしょに、この家の中に、初めて入れてもらったのは、わたしが2年生の春の頃だった。めずらしく休みだったパパにねだって、屋上に散歩にきた時、おじいさんがこの縁側で、電気スタンドを解体していた。昔のあんどんみたいなカサや、ネジやソケットを、そこら中に並べて、おじいさんは首をひねりながら、いじりまわしていた。
 パパは大きな電気会社の、研究所づとめだから、電気器具は得意だ。そんなわけで、声をかけたパパは、おじいさんのお助けマンに、早変わりしたのだった。
 この屋上では、夏の花火大会の夜、マンションの人たちと、ゴザに座って見物したり、夏休みの朝には、ラジオ体操の会に、出たりしていたので、その家におじいさんが住んでいることは、わたしも聞いていた。
 でも、あんなふうに、おじいさんと親しくなれたのは、ぜったいパパのおかげだった。
 わたしは平屋の和風の家がめずらしくて、見まわしていたら、おじいさんがぼそっと、中を見てもいいよ、と言ってくれた。
 二部屋の真ん中のふすまがはずされ、たたみばかり16枚になっている、広い部屋。床の間のわきの丸窓。おしいれ。それから、山の風景が横に大きく、つながって広がっているふすまの裏側は、台所との境の、板戸になっていた。
 ふすまの向こうは、西の端におふろ、それから台所と洗面所、トイレから引き戸の玄関へと続いている。広い縁側が、南側から東側までL字型につながっていて、藤のイスと小さなテーブル、藤の寝椅子も置いてあった。
 マンションの洋風のへやを、見なれていたわたしには、何もかもが珍しくてならなかった。

 こじんまりと、落ち着いた感じがすばらしくて、パパはうらやましがっていた。漢字の〈屋敷〉とまでは言えないが、小さな〈おやしき〉だね、と。
 おじいさんは、パパとわたしに、お茶をいれてくれながら、こんな話をしてくれた。
 5年前、洋風好みの息子が、12階建てのマンションを建てるのを、認めるかわりに、自分用の和風の家を、屋上に建てさせることにしたのだって 。管理人の園田さんのお父さんだったのだ。
 園田ビルのとなりに、一年後に、同じ高さの飛鳥(あすか)ビルができると、その屋上に庭園つきの家が見えて、おじいさんはその庭園が、うらやましくてならなかったって。それで、せっせと植木鉢をふやしていたのだ。
 今はどの花鉢も、一階の管理人べやの、ベランダに移されている。
 おじいさんがうらやましがっていたのは、もうひとつ。隣のビルは、屋上までエレベーターで上がれることだった。園田ビルでは、12階でエレベーターを降り、廊下を通って、2段のステップを上がって扉を開ければ、屋上に出られるが、植木を買ってきたおじいさんには、それがやっかいなのだ。

 パパはその後も、たまにしかない休みの日に、どこかへ出かける予定のないかぎり、屋上へ行こうか、とわたしを誘った。
 おじいさんは大歓迎で、パパはまるで父親のせわをするみたいに、暗くなった蛍光燈を取りかえたり、映りの悪いテレビを、修理してあげたりした。
 わたしも少しお手伝いをした。バケツで水を運んで、おじいさんがじょうろで植木鉢に水をまくのを、いっしょにやらせてもらったりして · · ·。
 屋上のもうひとつの魅力は、なんと言っても〈空〉だ。何にもさえぎられない、広いひろい空! 見上げるたびに、心が大きくなり、はずんでくる。わたしは屋上に出るたびに、大手を広げて、駆けてまわったものだ。

 おやしきの西側は、囲いから2メートルほど隙間があり、小さな差し掛け屋根の、戸口も出口もない、3段の棚だけの物置に、バケツや鉢やじょうろなどが、少し置いてあった。
 その外側に、巨大な広告の看板が、西日の当たる風呂の窓を、さえぎらないように立てられていた。北側には、入り口出口と窓のある、屋根つきの本物の物置が、台所の外側に、細長くついていた。よく工夫してあるねと、パパは感心していた。

 でも、楽しい屋上訪問は、その年の夏休みに、おじいさんの縁側で、花火をさせてもらったのが、最後となった。というのは、その夏休みのおわりころ、たいへんな事件が続いたため、屋上への扉が閉ざされ、出入り禁止となったからだ。
 ふたつの飛び降り事件が続いて起こったのだ。ひとつは中学生の二人の女の子たち、もうひとつは若い女性だった。
 テレビや新聞にも報道され、その噂が町でもマンション内でも、しばらく聞こえていた。わたしは怖くて、事件の方は、思い浮かべないようにしていたけれど、そのせいで、二度と屋上へ行けなくなり、おじいさんに会えなくなったことが残念で、その夏のことは忘れられない。
 あのおじいさんが亡くなった、と聞かされたのは、それからまもない冬のことだった。

 あの頃を思い出しながら、わたしは網戸ごしに、縁側の中をのぞいて見た。開けはなした障子の向こうのおざしきは、見るかげもなく、荷物であふれ返っていた。
 16畳の部屋には、洋服だんす、本棚、ソファのセットと、加湿機や電気ストーブなどの、大きな段ボール箱がいくつも · · ·。今はおやしき全体が、園田家の物置小屋にされているらしい。
 ふすまは開けられていて、台所の網戸も、物置の窓まで開けられている。風が吹きぬけるのはそのせいだ。夏の間は、昼も夜もそうしているのかも、雨の日以外は · · ·、だって誰も上がってくるはずはないのだから · · ·。
 障子の右はしのすきまから、見えているものが、二段ベッドの縁(ふち)だ、とわかった時、わたしの胸がドキンと躍った。すごいひらめきが、頭を走ったのだ。
(ここにわたしが泊まっても、だれにも見つからない!)
 わたしがカギを拾ったことを、だれも知らない。ここには管理人さんしかやって来ない。合いカギが他にあるとしても、わたしさえ用心して、かくれ場所を見つけておけば、おじさんは、こんな所にだれかいるなんて、夢にも思わないはず···。

 わたしはその思いつきで、熱くなってしまった。自由になれる! わたしひとりで、かくれていられる!
 腕時計を見ると、4時少し前だ。部屋に帰って、よく考えてみよう···。
 走り出した時、となりのビルの、屋上の垣根の向こうで、ホースの先から、水が天を向いてほとばしり出ていた。そこに小さな虹が見えて、わたしはラッキーを保証された気がして、ますます胸をとどろかせながら、扉にむかった。

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