何者になる

 現在、ドラマ『だが、情熱はある』が放送されている。話の内容はかつて漫才ユニット「たりないふたり」を組んでいた南海キャンディーズの山ちゃんこと山里亮太さんとオードリーの若林正恭さんの半生を描いたものである。
 私はこのドラマの存在こそ知っていたが、初めは見る気がなかった。これはこの二人に興味が無いわけではない。むしろその逆である。私はこの二人に対して、おこがましいが自分と似ている部分を感じているし、そういった意味で彼らに対しては好印象・親近感を持っている。それ故に、ドラマ化が決定したとき、まるで自分の好きな漫画・アニメが実写化する気分になってしまったのである。そのため、しばらくこのドラマを敬遠していた。
 しかし、youtubeのショートにて度々このドラマの切り抜きが出てきた際、少しだけ感動してしまった。出演している俳優陣は非常に再現度が高く、たった15秒の短い動画に私は目を奪われたのだ。
 そういったこともあり、私はこのドラマを見始めた。残念なことに、私が見始めたころには第8話まで物語が進んでいた。1~3話はありがたいことにTVerにて配信されていたため視聴することができたが、4~7話は総集編でしか見ることができなかった。しかしそれでも、満足感はすでにあった。夜中の12時から見始めたが、止まらず最新話まで追いついてしまった。結局ちゃんとハマってしまったのだ。

 このドラマで、山里さんは高校時代の「何者かになる」という夢を持っていた。彼にとってそれがたまたま芸人であったが、この「何者かになる」に私の心は引っかかった。
 そういえば、今は普通に何の不自由もなく働いているが、私もかつては、いや今も心のどこかで「何者か」になりたいと思っているのだ。
 そう感じ始めたのは中学校の頃だ。そのころ私はビートルズにはまっていた。そもそも私がビートルズにはまったのは、家にたまたまあったアルバム(確かベストアルバムである『1(ワン)』だ)を聞いたとき衝撃が走ったのだ。音楽性はもちろんそれが約50年ほど前に作られた曲である驚きに加え、何よりもアルバムの殆どの曲は一度は聞いたことがあったのだ。それらを聞いたとき、どれだけすごい・影響力のあるバンドなんだと感じそっからビートルズにはまっていった。
 しかしここから私は大きな勘違いに陥ることになる。当時中学校でビートルズにはまっている奴など自分ぐらいしかいなかった。このことから、世界一のバンドであるビートルズが好きな自分は、とてつもないセンスがあるのではと思ってしまった。そして、他の人が聞いていない音楽を聴くことにある種の優越感を感じていた。そうしているうちにその勘違いは肥大化し、いつか自分もビートルズのように世界に影響を与えるアーティストになりたいという風に思うようになったのだ。15歳。中学3年のことであった。

 時は流れて高校時代。先ほどのビートルズ、とはいかなくても音楽で大成している自分に憧れながらも、平凡に過ごしていた。そんな中での、私は再び「何者か」になりたいと思うのであった。
 当時私は朝の読書の時間にハマっている小説があった。それは司馬遼太郎の『竜馬がゆく』である。全8巻。坂本龍馬の生涯を壮大なスケールで史実に基づき描いた作品である。私はこの作品に影響を受けた。私もかつての志士たちのように「何か」を成し遂げたいと思うようになった。小説の中で、誰のセリフは全く覚えていないが。「人間生まれたからには何かを成し遂げなければならん」といった節のセリフがあり、私はその言葉にしびれてしまった。では、何を成し遂げるべきなのか。そこで思いついたのは経営者であった。画期的なビジネスを思いつき、世の中に影響を与えたいと思った。そういった意味で、私は大学で経営学を学ぼうと思ったのだ。

 そして大学生。私はかつて抱えていた大きな野望はどこか心の隅にしまってしまった。音楽で大成したいと思いながらバンドを始めたが、ギターは想像以上に難しかった。画期的なビジネスは、大学在学中にふと見つかると思ったが、そんなものはどこにも落ちていなかった。20歳。この歳でジョンレノンはすでにクオリーメンからビートルズになる転換期にいた。坂本龍馬は浦賀沖に現れた黒船を目にし、日本の将来を見つめ始めていた。私も何か大きな出来事が起きること期待していたがそんなことはなかった。結局、「何者か」になる人たちは、もちろん才能や努力は必要なのだが、それに導かれる運命・きっかけがあるのだ。そしてそれは待っていても来るものでもないし、逆につかみに行っても上手くいくものではないのだ。
 こうして、就職活動が始まれば、自分が「特別」ではないことを知った。「何者か」になることをあきらめ、ごく普通の人生を歩み始めたのだ。
しかし、忘れたわけではない。たまに詩や曲を作るのも、いまこうしてnoteにつらつらと書いているのも、自分が「何者か」になるきっかけにならないかと、かすかに感じているのだ。「何者か」になることをどこか捨てきれないのだ。

 
 話は変わるが、『モブサイコ100』という漫画・アニメがある。超能力をもつ主人公モブが、その超能力という個性に悩みながらも、成長していくの物語である。このモブサイコの第70話・71話(アニメだとシーズン2 第6・7話)は私の好きな話がある。
 それは主人公から「師匠」の愛称で呼ばれている霊媒師(大嘘)の霊幻新隆の物語である。彼は普段霊媒師の肩書をもとに、彼のもとに相談してくるお客さんの悩みを、インチキまがいな方法で解決しているほか、超常現象に対しては主人公モブの能力を借りて対処している。モブとは超能力の使い方を教えるという名目で、彼の能力を利用しながらもよい相談相手になっていた。しかし、ひょんなことからモブと仲たがいし、孤独になった時、彼は自分が「何者」でも無いことに気づく。超能力もなければ、知名度もない。誕生日を祝ってくれるのは母親だけ。そんな自分に嫌気が差し、霊幻は彼自身の力で「何者か」になることを目指すのであった。
 得意の話術と処世術を持ち合わせて、霊幻の霊媒師としての知名度は次第に上がっていく。もちろん、彼は霊感や超能力は一切無いため、いわゆる詐欺まがいな方法ででその知名度を上げていくのだが、その後テレビに出演するまで有名になった。既に彼は「超有名な霊媒師」になっていたのだ。しかし、そのテレビ出演にて、共演者や演出者にハメられ、彼に霊感がないことがバレてしまう。彼の「超有名な霊媒師」という肩書はあっさりとなくなってしまったのだ。
 記者会見で問い詰められる霊幻。そんな時彼は思う。自分はモブのように「何か」を持っている人間になりたかった。そのためにモブを含め、たくさんの人をだまして、虚構の「何か」を作り上げていた。そして、メッキははがれ、結局何にもなれなかった。しかし、モブはそんな彼を違う目で見ていたことが明らかになる。モブは霊幻のこと最初から「超能力の使い方を教えてくれる師匠」ではなく、「生き方を教えてくれる良い奴」だったのだ。だからこそ、霊幻が霊感や超能力の使えない、「何者」でもない人間だとしても、モブは彼を慕っていたのだ。
 
 

 「何者か」になるということは様々な意味合いがある。「お金持ちになる」だとか、「有名人になる」だとか、その捉え方は人それぞれだ。少なくともそれが「自分の理想の姿」あるのは間違いがない。しかし、意外と「自分の理想の姿」は、他人からしたらどうでもいいことなのかもしれない。そんなものにならなくても十分魅力があるという風に思われるほうが案外幸せなのかもしれない。そのためにはまず、自分が「何者か」になる事よりも「良い奴」になるのだ。魅力の本質は人間味だ。虚構の、空っぽの存在よりも、人間味が必要なのだ。
 最後に、今回のテーマ書くにあたって、ふと足りないものを思い出した。実はまだ、朝井リョウの『何者』を読んでいなかった。今回を機に、読んでみようかと思う。


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