人の気持ちがわからない

 こないだこんな出来事があった。
会社にて、聞きたいことがあり担当の席を訪れたところ、担当と私の同期とで軽い雑談をしていた。自分もその輪の中に入ると、いい匂いがしたので「なんの匂いですか」と私は尋ねた。どうやら担当の社員がハンドクリームを塗っていて、その匂いだったらしい。私は改めて良い匂いですねと言い、加えて「芳香剤みたいな匂いですね」と言った。すると、いや失礼だろ!っとハンドクリームを塗っていた社員が笑いながら言った。そして、フォローするようにその場にいた同期も「こいつこういうとこあるんで」となだめてくれた。私は笑いながらすいませんといい、その場は和やかに収まった。
 しかし私は腑に落ちなかった。私は割と褒めるつもりで「芳香剤のような匂いですね」といったのに、まさかそれが失礼だったのかと。それを言ったあと、担当の社員がトイレの匂いじゃないわ!とツッコミを入れてくれたので、私も確かに捉え方によれば失礼だなと理解できたが、どうもそれが心に残ってしまった。

 人の気持ちがわからない。 
それはそうなのだ。自分と自分以外の他人という存在がある時点で、相手のことを完全に理解するのは不可能なのだ。だからこそ、人は相手の気持ちを汲み取り、理解しようとし、それに伴った発言や行動をしているのだ。
 もちろん私も例外では無い。しかし、ひとつ決定的な違いがある。それは、私の思っている相手の気持ちと、実際の相手の気持ちに圧倒的なズレがいつもあるのだ。私が相手を褒める気持ちで発した言葉は、実は相手を不快にしていたり、反対に私が失礼だと思ってやらなかったことが、実は相手にとってどうでもよかったり、そんなことが多々あるのだ。

 人の気持ちを理解できない人には2種類いる。
1つ目は、そもそも人の気持ちを理解しようとしない人である。自分が中心であり、他人などどうでも良い。そういう人は強い。おそらくめちゃくちゃ嫌われるだろうが、その人自体はそれに悩むことはない。2つ目は人の気持ちを理解しようとするが、理解しようとする側が相手とズレているので、理解することができない、理解できないと勘違いされる人である。こういう人は苦しい。最大限の努力はしているのに、報われない。気づかないところで、無意識に相手を不快にさせてしまう。私は後者だった。


 人の気持ちを理解できるということは、ある意味人に気を使うことが出来るということだ。相手がこうしてもらったら嬉しい、助かることが理解できるからである。この能力がある人は飲み会など社交的な場でその能力を遺憾なく発揮する。積極的に場を盛り上げ、お酒やつまみが無くなれば店員をよび、礼儀や立ち振る舞いがしっかりしている。
 私には無理だ。そもそもその行為自体くだらないと内心思っているからだ。しかし、私は気を使っていないというのは嘘になる。むしろ気を使いすぎているのだ。
 別にお酒が無くなっていることに気づいていないわけではない。場が盛り上がっていないのに気づいていない訳ではなく。むしろそういったことに敏感に気づいているのだが、何もしない。見て見ぬ振りをするのだ。1番罪深いことを行なっているのだ。
 
 例えばお酒がなくなった場合どうするか。普通それに気づいたのであれば、注文を呼んだり、新たに酒を注いだりする。そして、それをされた側は感謝の意を述べる。しかし私はこう思う。もし、気を使って注文を呼んだり、酒を注いだりしたら、相手側に気を使わせているなと感じさせてしまうのではないか、そう思ってしまう。私もそう感じてしまうから、同じように相手も感じているのだろう、と自意識過剰になってしまうのだ。私は気を使うことに気を使ってしまうのだ。私は人の気持ちを理解することができないから、無意識に人を不快にさせてしまう。それが怖いから何もしない。しかしそれもまた不快にさせてしまうかもしれない。そんなループが私の頭で、わずかコンマ数秒の間に何回もぐるぐるまわるのだ。

 
 自分がズレているという自覚と自意識過剰な部分で私は大分もがいている。
 こないだ、街を歩いているとレッドブルを配るお姉さんがいた。その日はかなり暑く、喉が渇いていたので、もらいに行こうとした。というよりも「お兄さんいかがですか」と言われに行こうとした。そしたら、心置きなく「ありがとうございます」と言い、貰えるからだ。しかし、私が彼女に近づくタイミングで、彼女は別の通行人と話し始めた。私はなんとなくタイミングを逃し、レッドブルくださいというのも図々しいと感じ、その場を離れた。

 レッドブルが貰えるような人間になりたい。

  

 

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