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予想以上に歩く喜びを感じた

自分が歩みたい方向に迷わず歩ける。
歩くことは簡単で「当たり前」なことだと思ってはいないだろうか?当然生まれた時から歩ける人なんていない。そして丈夫な足さえあれば目的地に向かって進めるかといえば、それも違うのだ。
歩く意志と元気な足に加え、目的地と現在位置を認識する能力や、目の前の状況を理解できる五感も必要なのである。視覚さえあればと思うかもしれないが、聴覚や嗅覚に触覚も大いに活躍しているのだ。あっ味覚は活躍していなかった。

ということで格好つけるのはこれで止めて、ここからはいつもの文章に戻ります。

全盲の父のもとへ

先日全盲の父が一人で暮らしている実家に戻りました。全盲だと「スマホが使えない」と思い込んでいる父と世間一般になんとなく逆らいたい気分から、プログラム的なことができるアプリを介して父親専用の音声支援ツール「目代わり」を作成しました!基本的には音声の命令をきっかけにしてタッチ操作を代行してくれるという内容です。
そのスマホの調子が悪くて、修復するために戻ったのですが、父親が誕生日プレゼントとしてあるものを用意してくれていました。

歩行の友「白杖はくじょう

白杖はくじょうは全盲の人だけでなく、弱視者にとっても命綱となります。僕自身何度も自転車を中心に車などのくるくる回っているものから助けられています。
昔は白杖をつくという言い方が普通だったように思うのですが、最近ではコロコロ転がすタイプのものも増えています。学校公演で話をしたことがあるのですが、実は杖をついた時に鳴る音というのも、その反響の仕方から空間の広さや床の材質まで、色々なてがかりを含んでいるのです。えんじろうはつくタイプの人間です。

おニューの白杖

今時おニューなんて言い方する人はいるのでしょうか?写真にあるように全然長さが違って見えます。短い方がこれまで使っていたものなのですが、元々は同じ長さだったのです。信じられますか?

そんなえんじろうの使っていた白杖はもうボロボロ。先っぽにある石づきと呼ばれる部分がとうの昔にどっか行ってしまい、後はつくたびにすり減り続け、結構手を伸ばさないと役目を果たさないぐらいに短くなってしまいました。
弱視者だからそれで住んでいるものの、全盲の人にとってこの長さの不一致は致命的です。

新旧の白杖の写真

だから新白杖のプレゼントは本当に嬉しいです。視覚障害者の親がいて、誕生日があってよかった(おい)

白杖2本の散歩道

父と歩く山道の写真

父のように付き合い、一緒に山道を歩きました。もちろん新たな白杖とともに。白杖持ち2人が闊歩する山道(意味不明)です。地域性もあり本当に優しい車の運転手が多いんです。横をすれ違うときにスピードを落としてくれ、我々も頭を下げる。なんかそのたびに心が洗われます。

真横を車が減速無しで通る怖さは、健常者の方でも目をつむればすぐに体感していただけます。突風的な圧力も感じられるはずです。だから急いでいるかもしれないのにわざわざ減速してくださるドライバーの気遣いと心意気に、こっちも心が暖かくなるんです。

1人で歩く帰路

快適な白杖の写真

全体的にものすごく軽くて、石づきがあるおかげで、地面を突くたびに心地よい音が響きます。つい嬉しくて「これだよこれ」といってしまいました。
更に注文をつけるなら、もうちょっと柄の方が重いと更に振りやすいなと感じます。

弱視者と白杖の関係

自分は弱視者なのでそれほど白杖は必要としていないと思っていたのです。だから初めのうちは目印程度に持っていたぐらいでした。正直片手が塞がってしまうのでなしで歩ければいいのになあと思っていました。
しかし何か困っていた時など、人にお願いしても助けてもらいやすいという利点は感じてました。
それがいつのまにか白杖なしでは不安で仕方ないと思うようになっています。お飾りでなくしっかり使うようになっており、そうやってしっかりと補助具としての立場に居ついているんだなと感じました。

風を切る喜び

この一本の杖とそのルールが知られているだけで、たくさんの救われる人がいる。人が少ない道なら風を切って歩くことだってできる。
世の中に蔓延るルールに文句ばかり言う人もいますが、そのルールには元々立派な意味と目的があり、それによって実際に救われる人もたくさんいる事も事実なのです。

だからこの「白杖」と、それに関するルールを考えてくれた人と、それを知って気にかけてくださる人たちに感謝でいっぱいです。

ありがとう。

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