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なぜ弁士は自ら台本を書くのか・デビュー作「散り行く花」②


最初にこの作品を観たのは、
2000年の12月のこと。
東京キネマ倶楽部でサイレント映画専門のピアニスト・柳下美恵さんの伴奏のみで弁士も日本語字幕すら無く、
チャップリン等の喜劇映画ならいざしらず、当時無声映画初心者の私には難度が高すぎました。

この作品は当初から私達のデビュー作として候補に上がっていて、
今にして思えば
それはほんとーーに無謀としか言いようがない企画でありました。
その無謀な企画のお陰で今があるようなものです。


アルコール依存症の父親に折檻され続けたヒロインが、
クライマックスで追い詰められてくるくる自転する下りは
映画史的には名場面であるのですが、
ストーリーもよく解らずに
「これを自分が語る事になる。」
と言われてこめかみピクピクさせながら観た映画が、
私にとっての「散り行く花」でありました。
その後リリアン・ギッシュにドハマリするなんて、この時は想像もしなかったのであります。


今では殆ど即興演奏であったり、
「散り行く花」に関しては当時演奏された譜面を興して弾いたりされているが、この時は殆ど柳下さんのオリジナル曲でした。
私の脳内では柳下さんの作った曲が、
「散り行く花」の決定版として胸中に刻まれております。
そして我々が、
自らのオリジナル台本で(澤登翠師匠の台本パクリながらも)観客を前にして当日を迎えられたのも、
全ては素晴らしい演奏に支えられていたからこそであるという事を記しておきます。

様々理屈を捏ねる前に
本番の板の上に乗ってしまったと言う事は、今後そうそうあるわけもない現実でした。
何の準備もせずに海原へ乗り出した難民のような存在でした。

それでもその体験の中ではっきりと掴んだのは、
「活動弁士は自ら台本を書く」
何故それが定石であるというかという事。
最初の作品でありながらも、
私は途中でしっかりアドリブを入れてました。
「自分で書いたものが
ここは適切ではないと感じたら舵を取る」
のも活動弁士としての役目である事。
資料や画面とにらめっこしながらも、
その映画の脚本家や監督の許可を得ずに説明しなければならない私達。

一番大切なのは
知識ではなくて
(出来れば知識を入れた上で)
その映画の中に客観的に入り込む事。
観客を違和感なく物語の中へ誘う事。

のちに
「その映画の最後の送り手」
が活動弁士であるという事を
教えて頂く訳ですが、
最初の舞台で
何故活動弁士が自ら台本を書くのであるかという事を、
私は身体で掴んでいたように思ってます。

この辺りの話は
繰り返し書く事になるかもしれないし改めて書き換えて残すかもしれませんが、
本日はこの辺りまで!




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