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苦しみ学のススメ 6

前回は、仏教、そして鈴木大拙の言葉から、
苦しみの意味を探究してみました。
今回は、大拙と郷里を同じくする親友でもある、
哲学者西田幾多郎を緒に考えてみます。

西田は『無の自覚的限定』のなかで、

「哲学の動機は『驚き』ではなくして深い人生の悲哀でなければならない」

と書いています。
これは西田の人生を見るに、実感を伴って伝わってきます。
西田は、8人いた子供の内5人、
献身的に支えてくれた妻をも病気によって喪う中で、
自らの哲学の集大成「絶対矛盾的自己同一」に到達していきます。

次から次へと死に行く、愛する者たちとの別離。
その苦しみの中で、死の意味を問い続けます。

死はそのまま死なのではなく、
生の始まりなのではないか、
死は生の対義語ではなく、
この二つはつながっているのではないか。

苦しみを苦しみで終わらせること無く、
もう少し深めたときに広がる世界を
「絶対矛盾的自己同一」と表現したのではないでしょうか。

仏教には「一即多、多即一」の言葉があります。
一はそのままで多であり、多はそのままで一であると読めます。
一も多も同じであっては、明らかに矛盾していますが、
一も多もつながっているということこそが、
世界の本当の姿だというのが、
西田からみた世界の実存だといえます。

苦しみを通じて、目に見える表面的な形の奥にある、
真の姿を捉えた西田哲学は、
西田の生そのものでもあったのでしょう。

こうしてみると西田は、哲学が好きで哲学をしたというより、
何か大いなる自分を超えた存在によって哲学させられたといえそうです。

そしてそこには、苦しさが、
運命のように伴走者として寄り添っていたように見えます。
苦しさは忌み嫌う対象ではなく、
自らを新しい境地へと運んでくれる師であり、
友人のように思えるのです。

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