見出し画像

78年目の夏


敗戦の日に抱く疑問

先の大戦に敗れてから今年で78年。
この戦争について、今も尚様々な視点から検証が続いていますが、一つ違和感を感じることがあります。

それは先の大戦について、多くの人が「自分は被害者だった」「だまされた」「政府が悪い」「軍が悪い」という前提から語ることがあまりにも多いという点です。

この違和感について、その時代に身を置いた一人として、伊丹万作(伊丹十三の父)が「戦争責任者の問題」と題した手紙に、鋭く辛辣に記されています。
https://www.aozora.gr.jp/cards/000231/files/43873_23111.html

また、ドナルド・キーン著『日本人の戦争 - 作家の日記を読む 』(文春文庫)にも、当時の日本人の作家達がどの様に戦争を考えていたのか、戦禍の経緯と共に彼ら文化人の心境がどの様に変化したのかを、彼らが遺した日記をもとに具に記されています。

これら文献から伺えることは、意識・自覚の有無に関わらず、当時の誰もが間接的に、そしてときに積極的にあの戦争を支持し協力していたという事実です。

きっと、いやそんなことはない、軍や政府が勝手に始めたことだ、誰にも止められなかった、自分は何もしていない、無論積極的に協力などしていないと否定し、あの時代に反対することなど不可能だった、仕方がなかったのだ…と思われている方が多いと思います。
でも、本当にそうなのでしょうか。

無意識の同調

当時のオールド・メディアが、国の侵攻政策を積極的に支持し、軍の戦果を賞賛し、世論全体を戦争推進へと煽ったことは事実です。
(当時報道の自由はなかった、本意ではなかった、騙された、検閲により仕方なかったのだ…とする彼らの弁明は、昭和初期から敗戦までの新聞記事を読む限り、相当無理があります)

市井の人々も例外ではありません。
隣組を編成し、学校でも職場でも互いに言動を監視し合い、国への忠誠と奉仕を積極的に謳っていた(互いに強制し合っていた)のではないでしょうか。

当時、強制された訳でも巧妙に騙された訳でもないのに、メディアが報道する華々しい戦果を祝い、勝った勝ったと喜び、褒めそやしたことはなかったのでしょうか。
そうした風潮に疑問を呈した人を「非国民」と罵ることはなかったのでしょうか。
自由な服装や容姿をした人達を「そんな髪型や派手な服装は贅沢で非常識だ」「戦地の兵隊さんに申し訳ないと思わないのか」と非難することはなかったのでしょうか。
海外の方を「鬼畜米英」と卑下することは、本当になかったのでしょうか。

先に紹介した伊丹万作の手紙には、この点が痛烈に綴られています。

“「だまされていた」といつて平気でいられる国民なら、おそらく今後も何度でもだまされるだろう。いや、現在でもすでに別のうそによつてだまされ始めているにちがいないのである。”

伊丹万作「戦争責任者の問題」

今も残る本質

78年目の敗戦を迎えるにあたりこの様な話を綴る理由は、今の社会を見ていると、私たちと私たち社会の根本的な性質は、実は戦前とほとんど変わらず、未だに敗戦が突きつけた真の意味と事実を受け止めていない姿が随所に垣間見えるからです。

自省や自己批判とは無縁のまま、神の様な視点で語るオールド・メディア。そのメディアやネット上で繰り広げられる私的な社会制裁。建設的議論ではなく絶対的な正否だけを問い論破を競う不毛な論戦。暗黙のルールと旧き慣習を盾に、空気を読め、和を乱すなと迫る強烈な同調圧力。
こうした現代社会が抱える病相は、戦前から何も変わっていないのではないでしょうか。

多様性から世界を考える重要性

悲しいことに人類の歴史は、延々と繰り返される戦争の歴史です。
この負の連鎖を断ち切るには、勝者・敗者にかかわらず等しく冷静に歴史を振り返り、私たちの誰もが、自らの意識を見つめ直す必要があります。

政府が悪い、軍が悪い、当時の世界情勢では仕方がない等、他者にのみ原因を求めて相手を責め、自分は騙された被害者であると免責の立場をとり、ただ戦争反対のスローガンを唱えるだけでは、決して次の戦争を防ぐことは出来ません。

悲劇を繰り返さず、より良い未来を創るために必要なことは、決して思考停止に陥らず、考察を続けることだと思います。結論を急がず、善悪や正否といった二元論に依拠せず、観察と分析と考察を繰り返し、未来に向けた最善手を模索し続けることが重要です。

この最善手の模索に必要なのは、既成の規律や価値観にも囚われない自由な発想です。
絶え間なく変化し不確実な社会の中で、より良い最善手を編み出し続けるには、誰もが見過ごしがちな課題や未知の可能性を探るために、柔軟な視点と発想を生み出す深い多様性が欠かせません。
これとは反対に、ある特定の意識を絶対化し、異端を排除して全員の意識を均一化する、極度に特殊化された組織や社会がどの様な末路を辿ったのかは、歴史を振り返ると一目瞭然です。

いつの時もユーモアを

先の大戦で、国威発揚・戦争遂行のために数々の標語が生み出されました。
多くの人がその標語を是と考える中で、疑問を抱く人もいました。
例えば、無駄遣いを戒めるために掲げられた「わがままは敵だ」という標語に対し、

 「わがままは 素敵 だ」

と書き直した人がいたのです。
私はそのユーモアと批判精神に希望を感じます。

自由に考える。多様な形を認める。誰もがそれを尊重にする。
思考停止することなく省察し、最善手を考え行動する。
この意識こそが、次の戦争の惨禍を防ぐための鍵ではないでしょうか。

そう思いを巡らせる、78年目の夏です。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?