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世論の流れに棹さすメディア

(注 : 以下は私が昔、WEB論座に投稿した記事の再編集版です)


浅間丸事件

皆さん、「浅間丸事件」をご存知でしょうか。
第二次大戦が勃発した翌年の1940年1月21日、房総半島沖の公海上で、客船「浅間丸」が英国海軍の巡洋艦リヴァプールによる臨検を受け、乗船していたドイツ人21名が逮捕連行された事件です。

当時、英軍艦にドイツ人を引き渡した浅間丸船長に対し、世論は激昂し激しい非難の声が巻き起こります。この非難の先頭に立ったのは日本の主要新聞です。紙面上で浅間丸船長を厳しく糾弾し世論を誘導、この報道に煽動された人々が船長の自宅に押しかけ、投石される事態にまで発展します。

この事件の最大の問題は、戦時下の客船に対する臨検と戦時禁制人に関する問題というよりも、偏向報道に端を発した過激な世論と壮絶な私的制裁にあります。当時のメディアの流れを汲む現在の主要メディアは、不思議とこの事件の詳細に触れることはほぼ無いため、ご存知ない方も多いのではないでしょうか。

世論を誤った方向へ煽る報道

この事件については、発生後に関係者(英国側・船長の双方)から詳細な確認がなされたため、実際に何が起きたのか、そしてそれは国際法に準じたものだったかどうかについて、事実は明確でした。

英国海軍による公海上の臨検行為と浅間丸船長の対応は、いずれも戦時国際法に則ったものであり違法行為ではありません。また、浅間丸船長に対してはサンフランシスコ出港前に、総領事から英国海軍の臨検を受けた際の措置について指示を受けており(当時の情勢下では事件発生が十分に予想されていました)、船長はその指示に従ったに過ぎません。

戦時国際法では臨検指示を受けた船舶は、臨検終了まで無電の交信を禁じる(これに従わない場合、臨検者は攻撃することが許される)と規定されています。また臨検に従わなかった場合は敵対行動と見做され、船体ごと拿捕される恐れがあります。

船と貨物、そして乗員乗客の安全に全責任を負う浅間丸船長はこの戦時国際法の規定に則り、乗客と貨物の安全を最優先した適切な判断と対応をとりました。この判断と行為に対し当時の新聞は、事件発覚後「友邦のドイツ人を無抵抗で引き渡した」「なぜ無電の一本も打たなかったのか!」と激烈な批判を加え、船長の判断を軟弱な対応として厳しく糾弾、世論を煽ります。

この事件は国会でも問題となりましたが、事件の詳細は明確であり、当時の微妙な情勢下、日英両国ともに外交問題にすることを望みませんでした。海防に責任をもつ帝国海軍も、浅間丸船長の対応は国際法に則った判断であり妥当であるとし、政府(米内内閣)としても、論点を臨検行為ではなく戦時禁制人の範囲と処遇に絞り、本事案の解決を図りました。

事件経緯の詳細が判明し政府判断も明確となったことで、船長への個人攻撃は止み、世論も新聞も一転、掌を返したかの様に不条理な非難を浴びた船長へ同情を寄せ、この騒動は幕を閉じます。しかし、この騒動により、世論を考慮した日本郵船は非が全くなかった浅間丸船長の渡部氏を解任せざるを得ず、彼が浅間丸船長に復職することはありませんでした。

誤った非難と私的制裁が終息した後も、彼は一切弁明することなく、過酷な職務である南氷洋の捕鯨船船長へと寡黙に転じていきました。
当時激しい非難を加えた記者が、このことをどれだけ知っていたのか甚だ疑問です。

人は科学と事実を否定したいのか

この浅間丸事件のように、インターネットはおろかテレビすら無かった時代から、一つの事件に対して瞬く間に世論が沸騰し、断片的かつ誤った情報から断罪してしまう流れは、幾度となく繰り返され現在に至ります。

驚くべきことは、科学的に証明されている・確認されている内容にすら、「科学的には正しいかもしれないが…」といった免罪符的な枕詞を付した上で、「説明が足りない」「国民の感情を無視するな」と、あたかも全能の神のような視点で、主観にすぎない偏向した意見を「正しい意見」として強硬に主張する動きが、今も尚、世界中の至る所に存在し、喧伝され続けていることです。

全世界レベルで、緻密な情報収集と調査分析が可能となった現代に至っても尚、この傾向が改まらないところをみると、これはもう人間の性、業なのかもしれません。しかし、仮にそうであったとしても、依然として社会全体に対し強力な影響力をもつオールドメディアまでが、未だにそうした業を増幅させ誤った意見を流布し続ける行為は、到底看過しうるものではありません。

報道するものの責任と使命

「流れに棹さす」という言葉は、本来は「傾向に乗り、ある事柄の勢いを増すような行為」という意味です。ところが、今や60%近い人がこれとは反対の意味で用いるようになっています。

私個人としては、オールドメディアがオピニオン・リーダーという看板を掲げ、これからも社会で必要とされる存在であり続けたいと真に望むのであれば、時代に則した良い意味での「流れに棹さす」存在となる様、過去の所業を含めて厳しく振り返り、自己研鑽に臨んで欲しいと願うばかりです。

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