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【映画】ブレードランナー2049

10月27日公開の『ブレードランナー2049』を立川シネマシティで初日に観てきたので、その感想です。

というか普段、noteの映画感想文は極力ネタバレを避けて書くようにしているのですが、今回は無理そうです。作品のテーマと謎解きがガッツリ絡み合っているタイプの映画で、なおかつ「主人公Kの正体は?」「前作からこれまでに何があったのか?」「デッカードとレイチェルはどこでどうしているのか?」「ウォレス社の目的は?」など作中で提示された重要な謎が、エンディングまでに完全に解決するのです。そこに触れずに何かを書こうとすると、めちゃくちゃ薄い、ふんわりした文章しか書けない。でないとしたら、「みんなはやく観て!」としか言えない…。

なので、本作が気になっている方は、悪いことは言いませんのでこの文章も他の方のレビューも一切読まずに、情報をシャットアウトして早めに劇場でご覧になってください。結論から言って、私は本作はとても好きだし、間違いなくあの『ブレードランナー』の続編として受け入れたくなる作品でした。

そう、思っていたよりもしっかり「続編」なのです。前作『ブレードランナー(ファイナル・カット)』は必ず観てから行ったほうがいいと思います。それどころか、もしうろ覚えだったら観直しておいてください。前作を知っていると楽しめるみたいなレベルではなく、前作で描かれたものを下敷きにして新たなレイヤーを描いているので、重ねて見ないとそもそも何の絵なのかすら分からないかも。
いやあ…こんなハイコンテクストで観る人を選ぶ作品、悪く言えば売れなさそうな映画、よく作ってくれましたよね…。

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『ブレードランナー』らしさ

私は先日、前作についての感想のなかで、何をもって『ブレードランナー』なのかというと「人間と非人間を隔てるものはなにか、というシリアスな問いにどういう態度で向き合っているか」を挙げました。「共感性」をキーワードにその境界を探った前作に対して、本作はそれを否定するでもなく、新たなレイヤーとして「エゴ」の問題を持ち込んだように思います。

主人公Kは始め、淡々と命令された通りの仕事をこなす無慈悲なブレードランナーとして描かれる。しかも今回は早々に、冒頭で彼はレプリカントであることが示されます。彼にははじめから自我があって、移植された記憶を元に納得づくで仕事をこなし、あまつさえ電子的存在の女性と愛を育んでさえいる。

だけど、Kは徐々に命令に背いて、自ら望んで個人的な問いに向き合おうとする。"退職"させる旧式レプリカントに魂(soul)がないとしたら、レプリカントに生まれる子どもに魂は宿るのか。その子どもは自分自身なのではないか?

レジスタンスのフレイザが、Kに"Dying for the right cause. It's the most human thing we can do."と伝えるシーンがありました。Kはまさしくそのとおりに、彼にとっての大義を果たして人間として死んだのですよね。人間らしい共感を示して、雨の降る中で死んでいったロイとまるで同じように、しかし今度は雪が降る中で。あのシーンでヴァンゲリスの"Tears In Rain"のアレンジが流れて、ああこれはまぎれもなく『ブレードランナー』だ…と思いました。

自分は「特別な存在」か?

Kがアナに会って幼少期の記憶が他の誰かのものと確信するシーン、そして自分が件の「子ども」本人でないと知らされるシーンは切なかった。あそこはミスリードが効いてて、観ているこちらも「んん?」となった。ジョイは彼を何度も「特別な存在」と言ってくれたけれど、彼女を失ったあと、彼女のお決まりのセリフすら「素体」のアイドルのデフォルト音声だったと明らかになる。こんなに残酷なことはない…。

ただ、SFって常に現代の寓話だと思うのです。これは別にKだけの話じゃない。誰もが自分は「特別な存在」と「錯覚」しているのですが、大人になってゆく過程で、自分と世界を繋いでいる要素をひとつひとつ検討していったときに、それが単なる思い違いに過ぎないと悟る。そのうえで、死ぬまでの残りの生にあたって何を選び取るかという話なんだと思います。

というか『ブレードランナー』って、ものすごく個人的な話ですよね。今回も、レプリカントたちのレジスタンスだとか、ウォレス社の野望だとか、はたまた地球外(Off World)の事情だとか、いくらでもスケールを大きくできそうな話なのに、そうしなかった。そうしてしまうと、それはもはや『ブレードランナー』ではないという共通の理解があるのでしょう。だからこの映画は、あのシーンで終わった。

Kとジョイ

そもそも観始めて最初に「今回はそう来たか!」と思ったシーンは、ジョイの初登場の場面でした。帰宅したKを出迎える女性の声だけが聞こえていて、すーっとカメラが回り込んでいくと、ちょっとチカチカしたりなんかしてあからさまにデータ存在のジョイが現れる。

人間と、人工であるというだけで人間とバイオ的にほぼ同一なレプリカント、そのほかにもうひとつ電子データ存在としてのAI、という3つめの軸を用意したことが、『2049』の現代的な新しさだと思います(科学技術レベル的には逆転している気がしなくもないけれど)。

こちらの評(ヴィルヌーヴ&ゴズリング、よくやった!『2049』は『ブレードランナー』を引き継ぎ、そして超えた:池田純一レビュー|WIRED.jp)の最後のほうでは、「デジタルなジョイはボディを求め、フィジカルなKはソウルを求める」と指摘していました。まさしく肉体を求めて、あの、レプリカント売春婦(マリエット)に身体を重ねるシーンすごいですよね…。あんなに奇妙で悲しいラブシーンなかなかない。

あのシーンは、帰り際マリエットがジョイに放つ捨て台詞も辛辣なんだけど、あの世界のAIにレプリカント同様の自我は宿るのかという問い、また被差別存在であるSkin Job=レプリカントがAIをどのように見ているかというヒントを残す台詞でした。

デッカードとレイチェル

デッカードお爺ちゃん、コワかったですね。廃墟での隠遁生活…長くて2021年から49年までの28年間が彼をそうさせたのか、前作に輪をかけて偏屈になっており、Kとの対面シーンの異様なまでの緊張感が最高でした。しかも、彼の過去に関して一切言葉で説明しない。ただただ、「言わなくても分かるよね」というノリが良かったです。

「今回はそう来たか」と感じたふたつめの点が、レプリカントが子をなす可能性について言及したことでした。続編を制作するにあたって、設定についてはあらゆる可能性が検討されたのだと思うけれど、レプリカントが出産するとは予想もしていなかった(そして私はニンジャヘッズなので、どうしても「ニンジャは子をなさない」という事実を関連付けて考えてしまいます)。

日本語字幕のなかで、レイチェルと発音しているにもかかわらず字幕を「ラケル」としている箇所がひとつあって、気になって調べたら旧約聖書のラケル(Rachel)は難産で命を落としているんですね。

これに限らず、本作は字幕もすごく良かった。「オフワールド」というルビまで振っているのは感激しました。肝心なセリフを切り落としていたりして不完全だった前作(ファイナル・カット)とは違って、少なくとも初見で違和感を感じた点はほぼありませんでした。

意外と多かったファンサービス

公開前のトレイラーでは、まるでファンタジー異世界のような様変わりした風景が印象的だったので、ファンサービス的な小ネタ、あるいはオマージュがところどころにあったのはむしろ意外でした。冒頭のサッパーと争うシーンでKが壁を破って出てくるところでふふっとなる。

壁破りと、あと拡大→拡大して映像を解析するモチーフは、その後も何度も繰り返されました(拡大はenhanceではなくcloserと言っていたけれど)。このモチーフの使いかたは、音楽でいうサンプリングのような印象を受けました。

一方で、前作の映像や音声がそのまま使われるパートが多かったのも驚きでした。おもしろい掘り下げだなと思ったのは、デッカードがレイチェルに対して共感性テストを行ったときのレイチェルの反応について、この時点で「気を惹こうとしている」という解釈をしていたこと。確かに、前作『ブレードランナー』はロマンスとしてはすごく奇妙な作品で、デッカードとレイチェルが互いを好きになり、愛していると自覚するまでの流れがまったく抜け落ちているのです。なので、その補足をここでするんだ!という意外さを感じました。

また、お馴染みの退廃ネオン都市風景もありました。これに関しては、個人的にはもうなくてもいいのかなくらいに思っていましたが、あるとうれしいものです。謎日本語看板も、前よりずっと控えめながらいくつか見つけました。

ヴィルヌーヴ監督の映像

青を基調としながらも、猥雑でどぎついカラフルな印象を残した前作に対して、本作を振り返って記憶に残るのは圧倒的なモノトーンです。それも作品全体で一色ではなくて、ひとつの場面に一色というのを積み重ねてカラフルにしている感じ。廃棄場の灰、デッカードの隠れ家の赤、ラストバトルの波打ち際の青、そして雪の白。

『メッセージ』(Arrival)のときと共通するドゥニ・ヴィルヌーヴ監督の映像の個性は、作品全体を支配する詩的・瞑想的なトーンから強く感じました。色や光の使いかたもそうだし、それ以上に時間軸上の画面の情報量のコントロールのしかた、間の取りかた。

例えば、廃棄場の孤児院(とは名ばかりの強制労働所)でKが目的の子どもの手がかりを探すシーンは、相当時間をかけてゆっくりと描かれる。複雑に入り組んだパイプがフェチズムをくすぐる場面。あの一連のカットは、観客としては「Kが目当てのものを見つけ出すんだな」というのは分かっているので、ストーリーテリング上はあんなに時間を割く必要はないはずですが、台詞のない映像だけでじわじわとKに感情移入させる「間」を敢えて作っている。

そのために、2時間44分という上映時間も、観る人によっては退屈に感じてしまうこともあるのかも。でも、ヴィルヌーヴ監督の作家性はあの映像表現にこそ現れていると私は感じたし、それは決してアクションや劇的なドラマを伝えたいわけではない『ブレードランナー』という特異な作品の雰囲気と相反するものではないと思います。同じ脚本でも、他の監督ならこうはいかなかった。

音楽

私は今回立川シネマシティの「極上爆音上映」で鑑賞したのですが、正直、今回ばかりは極爆じゃなくてもよかった。『2049』に関して唯一不満があるとすればハンス・ジマーの音楽で、音楽というよりも音響の概念に近い、ドーン!ドーン!という感じのサウンドは思索的な映像にあまり合っていなかった。これならまだ、当初ブッキングされていたというヨハン・ヨハンソンのサウンドトラックのほうを聞いてみたかった気がします。

前作で、ヴァンゲリスが当時としては最新のアナログシンセを使って描いた未来の音は、目新しさとともに作品に完璧に寄りそう音楽だったからこそ優れていたわけで、欲を言えば今回もそこまでの「音楽」が欲しかった…。奇しくもここ数年、シンセサイザー界隈はアナログ・リヴァイヴァルに湧いているだけに、今のシンセサイザーで30年先の音楽を作ることのできるアーティストは他にもいたと思うのです。そもそもヴァンゲリスさんがご健在なのだから、オファーの手もあったはず(もしかしたらオファーはしていたのかもしれない)。

とはいえ、あのシーンで流れる"Tears In Rain"は素晴らしかったです。

「2019年」が訪れる前に

上映が終わって、エンドロールを眺めてぼんやりしていると、Kの記憶を探ったアナが涙を流したシーンについてはたと気づきました。あれ、あのときは他人の記憶を覗いて彼女が涙を流す意味が分からなかったのですが、考えてみれば、彼女が出会ったのは他でもない彼女自身の記憶なのですよね…。最後まで観ればあれは伏線で、ラストカットを体験して初めて、逆にあのときのアナの心情に思い至るような構造になっている。ここもまた瞑想的です。

『ブレードランナー』は、デッカードにまつわる極めて個人的な物語で、だからこそ人類全体や世界にとってではなく(例えばレプリカントが人類に叛旗を翻すかどうかというのは、実はこの作品にとってはどうでもいいことなのだ)、生と死の問題をシリアスに捉える個人にとって普遍的な寓話性を持っている。『ブレードランナー2049』もまた、Kにまつわる個人的な物語で、それは何も変わっていなかった。

ただ、観客が作中時間が示された作品の当事者性をリアルに感じとるためには、それが「過ぎ去った可能性」ではなく「訪れるかもしれない可能性」として開かれていることが絶対に必要で、その意味で『ブレードランナー』の作中時間である2019年が実際に訪れる前に、2049年にアップデートしたことの意義は大きいと感じています。しかも、作品の本質的なメッセージを足したり引いたりすることなく、新しいレイヤーを提供する形で。

まだ何度か観れば別の発見があるのかもしれませんが、ひとまず初見の感想としてはこんな感じです。ひとつひとつのシーンやキャラクターについて思いを巡らせると、まだまだあれこれ考えてみたくなりますね。

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