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容量

割と何でも器用にこなせる。

そう思っていた時期もあったのですが、実はそうでもなかった、ということに最近気が付きました。

いろんなことに興味を持って、調べるのも好きだったので、広く浅くにはなりますが、器用貧乏というか、私はそういうタイプかなと思っていたんですよね。

しかし、私の容量はそんなに大きくない、そしてさほど器用でもないということがわかってきたのです。

毎日の生活の中で、いろんな機械や人の支え、どこかの誰かや何かによって、当たり前だと思っている生活は支えられていると思います。

例えば、水が欲しいとき井戸を掘ったり、川に水を汲みに行く必要もないですし、お風呂に入りたい時に、火を起こすこともしません。

もちろん、洗濯ですらボタン一つですから、私が洗濯をしているのではありません。
洗濯機に洗濯物を入れる作業はしていても、洗濯は洗濯機がしています。

だから、私は洗濯はしていません。
水も蛇口を開けますが、水を出してはいませんし、お風呂のボタンを押しますが、お風呂は沸かしていません。

生活の中で私は何にもしていないんです。

食事だってそうですよね。
食材をお金で買うことはしますが、食材は作っていません。
切るぐらいはしますが、煮炊きする料理も電気のボタンだけを押し、電気を起こしてはいません。
もちろん、調味料も作りません。

もう一度言います。
私は毎日特に何もしていないんです。

その中で唯一私が自分の手でしていることは、掃除です。

以前、掃除の仕方という投稿で、

掃除機をやめて、はたきと箒に変えたと投稿しました。
はたきをして、箒で掃き、雑巾で床を拭く。

これらだけが、生活のなかでただ一つ、私が自分の手でしている作業だと気が付いたのです。

以前は調べたいものがあれば、人に聞いたり、図書館に出向いたりしていました。
または、書店で本を取り寄せたりしていましたが、最近はネットで何でも調べられるので、それもしなくなりました。

始めのうちはいろんなことがどんどん便利になって、とても良いと思っていました。

だから、私はいろんなことが出来て、いろんなことを知っていて、何でもできる容量が自分にあると思っていたのです。

痒いところにすぐ手が届く。
欲しいものや知りたいこと、行きたいところ、何でもできる。

まるで神にでもなったような気になります。

ただ、それは大きな勘違いでした。

何でもできるのは、ほとんどを機械がしてくれて、何不自由なく生活できる環境や、何でも調べられるネットがあるから、というだけです。

生活のほとんどが、私ができる作業でも、私が本来持っているポテンシャルの結果得られた生活でもありません。

私はずっと何もしていなかったのです。
それでは器用貧乏どころか、ただの貧乏です。

その時に、私はこう思いました。
『あぁ、私が唯一出来ることは掃除だけなんだな』

これは、卑下して言っているのではありません。
何にも頼らずに私の力でできる作業という意味です。

と言っても、実際には道具がないとそれもできないので、純粋に私の力でもないようにも思いますが…まぁそれは一旦置いといて。

いろんなことを人や機械に任せると、本当に助かります。
現代みたいに、みんな忙しく一日を終えている中で、川に水を汲みに行くところからはなかなかできないですし、あらゆる助けのおかげで生活が支えられています。

ただ、自分の手で作業をすると、一日の内でその時間だけ、光が当たるような感じになるんですよね。

機械でも、ボタンでもなく、ちゃんと私が自分の手でしたんだなって言う時、私はとても癒されているということに気が付いたんです。

それも、掃除機を使っている間はそんなことを思いませんでした。

全部、私の手で行うようになってから、私は掃除の時間がゆっくりと流れているのを感じて、毎日その時間に『生きている』実感のようなものを感じるようになったのです。

ですから、一日の内にそういう時間を作ることが、実はとても大切なのではないかと思います。

その時間がいくら素晴らしいとは思っても、だからと言って急に山に芝刈りに行く生活は私にもさすがにできません。

ですから、どこか一部でいいので、その時間を取り入れるのはいかがでしょう。

何でもいいと思います。
何にも頼らずにするということですから、例えば、ベランダで野菜を育ててそれを食べるとか、コーヒー豆を自分の手で挽くとか。

道具は使うと思いますが、出来るだけ、機械や人にしてもらうのではなく、極力いろんなものにしてもらうことを少なくする。

そうして、自分のお世話をしてあげる時間を作ると、とても心地よくなりそうですね。

いかがでしょうか。

今日もお読みいただきありがとうございます!





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