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田村俊子 木乃伊の口紅

「みのる」と「義男」夫婦の話。作家の夫には安定した仕事がなく、妻も芸術を志す身ではあるが、全然仕事をしていない。

田村俊子の作品には初めて触れた。冒頭の情景描写でグンっと引き込まれる。「無数の死を築く墓地の方からは、人間の毛髪の一本一本を根元から吹きほじって行くような冷たい風が吹いて来た」という文には思わず下線を引いた。舞台は谷中・上野のあたりで、土地勘があるので情景も思い浮かんでくる。

義男はみのるに「僕にやとても君を養ってゆく力はない」「別れよう」ということを繰り返し繰り返し言う。みのるの振る舞いや性質に反感をもち、それを過去の女性と較べたりする。ひどい夫だなと私は思った。一方で彼にも言い分はあり、一定程度理解できるような気がした。同情できなくもない、むしろできる部分も多い。
義男は同情がない、優しくないというものの、みのるはたびたび夫に同情を寄せるような様子を見せる。しかしそれは、実は夫というよりはむしろ自分自身に向けた同情なのではないかとも思うがどうだろう。例えば夫の服装についての場面がある。

「これもこんなに成ってしまった。」
と云いながらその摺り切れたところをみのるに見せた。秋か春に着るといふ洋服を義男は暑い時も雪の降る時も着なければならなかった。そうして何か事のある度にこの肩幅の広い洋服を着てゆく義男のことを思った時、今日のみのるは例の癖のように自分どもの貧しさを一種の冷笑で打消して了う訳にはいかなかった。さんざん悲しみの光景に慣らされてきたその心から、真から哀れっぽく自分たちの貧しさを味わうような涙がみのるの眼にあふれてきた。
「可哀想に。」

みのるは義男と結婚する前作家に師事していたことがあった(はっきり書かれているわけではないし、話の大筋には関わらないがおそらく愛人関係をむすんでいたのではないかと思う)。
師匠から距離を置いてから今にいたるまで彼女は文学上の仕事を成したことはない。それでも彼女の中で芸術は大切なものであり、プライドがあることは確かなのだ。それを義男はたびたび「高慢」という言葉で茶化したりする。

ふたりのすれ違いはこう表現される。(しかも二度同じ文が登場!)

粘りのない生一本の男の心と、細工に富んだねっちりした女の心とがいつも食い違って、さうして毎日お互いを突っ突き合ふ様な争いの耐えた事のない日を振返って見た。

夫婦の不和はことばの応酬にとどまらず、手が出るようにもなってくる。もちろん義男が力で圧倒しているわけであるが、「君は我々の生活を愛すって事を知らない」と迫られたみのるは家の外へ飛び出していく。同時に彼女はこう思う。

みのるは全く男の生活を愛さない女だった。
その代り義男はちっとも女の藝術を愛する事を知らなかった。

この食い違いは決定的だ。互いに大切にしたいものがこれほど決定的に食い違っている場合、夫婦は一緒にいられないだろう。みのるもそのことをしっかりと自覚するが、家に帰ってあくる日から彼女が始めたことは、夫の言いつけにしたがって懸賞に応募するための作品を仕上げにかかることだった。

作品を絶望しながら書き上げたみのるが次に力を注ごうとしたものは演劇だった。これにも義男は茶々を入れる。特にみのるの容姿が美しくないことへの言及には誰しも敏感に反応するだろう。特に今の時代は容姿についてあれこれ言うことがNGとされる価値観が広がりつつある。とはいえこの作品が書かれた当時においても、これほど執拗な描写は意図的になされていると思われる。

みのるが演劇に取り組もうと奮闘するあたりから、どうやら夫婦の力関係のバランスが変わったように思える。共依存的とも思われる関係が解けていく。結局みのるは演劇に打ち込み切る前に気力を萎えさせてしまい、以前の状態に逆戻りしてしまうのだが、いよいよ離婚を決断したとき運命の悪戯が起こる。懸賞に出したみのるの作品が当たったのだ。離婚話はなかったことに。

これを機にみのるはいよいよ自分の道を歩み始める。

その後みのるは神経的に勉強を初めた。今まで兎もすると眠りかけさうになったその目がはっきりと開いてきた。それと同時に義男といふものは自分の心からまるで遠くなっていった。義男を相手にしない時が多くなった。義男が何を云っても自分は自分で彼方を向いてる時が多くなった。みのるを支配するものは義男ではなくなった。みのるを支配するものは初めてみのる自身の力によってきた。

こうして女は自立していくのか。女を力でねじ伏せていた男は「取り残されてゆくやうな不安な感じ」を抱く。
大正時代に書かれた作品がこんなにも示唆的なのに、令和時代にも根強い男尊女卑・家制度の蔓延りかたというのはいかに根強いものかと思う。

物語のラスト、みのるが見た木乃伊の夢。男女の、鼠色をしたミイラが、上下に重なり合っている。下になり、上を向いていた女のミイラの唇が口紅で真っ赤な色をしている。この作品の中で唇、口、は繰り返し強調される部位である。この夢を機に、みのるが自らの口で、自らの言葉を力強くつむいでゆくのだろうという想像が喚起される。
「木乃伊の口紅」はもっと丁寧に読み込めば色々なことが発想できそうな作品だ。読む人によってその印象も様々ありそうだ。色んな人に感想を聞いてみたい。

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