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映画レビュー「Fukushima 50」

この映画の存在は知ってたし、糸井重里さんのツイートが叩かれているのも見てた。機会を逸してしばらく忘れていたが、3月12日の金曜ロードショーでノーカット放送されるということで「あっ! これ観たいやつ」と思った。結局それも観られなかったので、昨晩プライムビデオでレンタルした。いま劇場で再上映してるみたいですね。以下、簡単にだが感想を記しておく。


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原発を設置した電力会社が、その責任をもって事故を収束させなくてはいけないのは当然の道理だと思った。命の危険を伴うので見ている方は辛いんだけど、民間企業の事業であるわけだから、やっぱりあの人たちはやらなきゃいけなかった。
東電本店はただただ酷かった(当時のニュースでも何じゃこいつらと思ったのを思い出した)。何より映画を観て率直に思ったのは、原子力を人間が制御することの不可能性だった。

映画の中で、佐藤浩一演じる伊崎と渡辺謙演じる吉田昌郎所長の幼少期の回想シーンがある。伊崎の父も原発関連企業で働いていた。社会科見学で聞いた「二酸化炭素が出ないクリーンな電力」「次世代の電力」というような原子力発電の良い面だけをすり込むような耳あたりのいい説明。それが今、こんなことになっている。居たたまれなかった。2号機が爆発を免れたのは偶然でしかない(最後、そういうセリフが出てくる)。

原発を廃炉にして電力が足りなくなるなら足りる範囲内でやりくりするしかない。お金と一緒だ。お金がなければないなりに暮らしていかなくてはいけない。過剰に膨れ上がりすぎた人間たちの欲望を本来の自然な大きさに萎めなくては。

現実はいろいろな要素が絡みあうので2時間の映画ですべてを描ききっているとはまったく思わない。さまざまな批判の記事も読んだ。
それでも、原子炉建屋の内部の熱さや、建屋の横からどんなふうに海水を注入していたかとか、水素爆発の衝撃とか、防護服の着脱や線量計の警報音、現場の緊迫感や死を覚悟した職員たちの姿、などなど映画をとおして見ることができただけでもわたしには貴重な経験だった。

立場によって捉え方もさまざまかと思う。でも映画をきっかけに関心をあつめたり、議論の叩き台にしたり、むしろそちらの方が大事なのではないでしょうか。映画そのものに対する批判も大切だけれど、事実をもとに作られた映画である以上、現実について考察することが必要だと思う。

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